ある人が、「永遠は、ここにある」と言いました。
しかし、私たちは知っています。
この世界では、何もかも変わらずにはいられない、ということを。
「いま、この時」も、永遠にここに留まることはできず、過去へと変わらずにはいられない、ということを。
そうだとすれば、やはり「永遠」は、ここではないどこか、あるいは彼岸にしかないのかもしれません。
ですが、果たしてそのように断定してしまって良いのでしょうか。
もしかすると、私たちが「永遠」を、ここでないどこかにしかないと考えてしまうのは、「永遠」の捉え方に問題があるのかもしれません。
岡本太郎氏は言います。
「この世界では物として残ることが永遠ではない。その日その日、その時その時を、平気で生きている。風にたえ、飢えにたえ、滅びるときは滅びるままに。生きつぎ生きながらえる、その生命の流れのようなものが永劫なのだ。」(岡本太郎『沖縄文化論 忘れられた日本』中公文庫)
たしかに、「永遠」を「永遠である物〈もの〉」と捉えるならば、万物が変わらずにはいられないこの世界では、「永遠は、ここにはない」のかもしれません。
ですが、「永遠」を何もかも変わらずにはいられない〈もの〉ではなく、〈こと〉と捉えるならば、もしかすると「永遠、はここにある」と言えるのではないだろうか、そんな気がするのです。
では、「永遠であること」とは、いったいどのようなことなのでしょうか。
「永遠」について、おそらく私たちはそれを時間との関係で考えるでしょう。つまり、もしも時間の流れを止めることができるならば「いま、この時」を永遠とすることができるのではないだろうか。そして、何もかも変わらずにいられるのではないだろうか――もっとも、そんな思いも虚しく、この世界では無慈悲にも、「いま、この時」は瞬く間に過去へと変わり、そして、私という<もの>は老いへと変わらずにはいられないのです。
万物が変わらずにはいられないこの世界では、「いま、この時」という<もの>も、私という<もの>も、変わらずにはいられないのは確かです。
しかし、たとえ「いま、この時」が瞬く間に過去へと変わろうとも、次の瞬間には「いま、この時」が将に来るということも、また確かです。そして、たとえ過ぎ去った「いま、この時」の私というものが、将に来る「いま、この時」において変わろうとも、私であるということは、将に来る「いま、この時」においても変わることはないということも、また確かです。
そうだとすれば、「永遠であること」とは、過ぎ去った「いま、この時」と将に来る「いま、この時」を生成する営みであり(過去は、失われた今ではなく、今が生み出した時なのではないかと思うのです。)、過ぎ去った「いま、この時」と将に来る「いま、この時」においても変わることのない、私であるということ、であると言えるのかもしれません。さらに言えば、「私であるということ」こそが、過ぎ去った「いま、この時」と将に来る「いま、この時」を生成する営みであるのかもしれません。
「なにをするにも時間を必要とし、時間を見込んでいるわれわれの現存在自身が、『いま』ということばで自分自身を言い表しているのである。いまが時間の一区切りではなくて時間それ自身だとするならば、時間とは要するにわれわれ自身、私自身のことではなくてはならない。……いまがいまとして成立しないところでは私も私として成り立たず、逆に言って私が私たりえないところではいまもいまであることができない。」(木村敏『時間と自己』中公新書)
もっとも、このように考えることに対しては、「この世界では、人間の生命も有限だ。にもかかわらず、『私であるということ』が永遠だというのはまやかしである」との批判もあると思います。
ですが、果たして、私たちが不連続存在であるがゆえに「私であるということ」は永遠ではない、と言い切れるでしょうか。
私たち人間が、不連続存在であることは確かです。しかし、不連続存在であるからこそ、人間は「私という〈もの〉」を通してでしか「私であるということ」たりえないのです。それゆえ、不連続存在であるかぎり、「私であるということ」の永遠性に触れることができないのではないでしょうか。
もっとも、個を超越するような存在を考えることは、ともすれば個を否定ないしは軽視しかねないという懸念もあります。私が思うに、私という個人を否定ないしは軽視した「私であるということ」の永遠など、そもそもナンセンスでしょう。私が私であってこそ、永遠がここにある意味があるのですから。
参考文献