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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

澁澤龍彦『エロティシズム』雑感

エロティシズム (中公文庫)

 エロティシズム (中公文庫)

エロティシズムについて真面目に考えたいと思う私にとって、澁澤龍彦氏の著作である『エロティシズム』(中公文庫)は、いわば「エロティシズムの入門的教科書」です。

澁澤龍彦氏といえば、マルキ・ド・サドの著作物翻訳出版のわいせつ性をめぐる「『悪徳の栄え』事件」の被告人として有名です。それゆえ、もしかすると澁澤龍彦氏は、世間一般では「セクシュアルな表現の開放(解放)論者」であると思われているかもしれません。ですが、はたして澁澤龍彦氏は、本当に「セクシュアルな表現の開放(解放)論者」なのでしょうか。

澁澤龍彦氏は『エロティシズム』の中で、つぎのように書いています。

「よしんば健康な性、正常な性というものがあり得たとしても、健康なエロティシズム、正常なエロティシズムというものは、本来あり得ないのではなかろうか。言葉を換えれば、異常への方向性をふくまないエロティシズムは、エロティシズム特有のダイナミクス(活力)を失って、やがて衰滅するのだ。性のタブーとは、いわばエロティシズムがその活力を失わないための、必要不可欠な条件なのであろう。」(109頁)

「一本調子な性の開放論者の尻馬にのって、安易な処女否定論などを口にするドライな青年男女は、じつはエロティシズムの何たるかを少しも解しない、青くさい連中でしかあるまい。」(115頁)

「……わたし自身としては、べつにこの論稿で、性の自由を積極的に主張しようという気は毛頭もないのである。前にも書いたと思うが、タブーが完全に取り払われたとき、はたしてエロティシズムが生きのびられるものかどうか、わたしには全く確信がないからである。」(255頁)

私が思うに、澁澤龍彦氏が「『悪徳の栄え』事件」の裁判で主張したかったことは、「セクシャルな表現は反道徳的ではない」ということでも、ましてや「“猥褻”ではなく“芸術”だから社会的に許される」などということでもなく、「人間ごときに、エロティシズムを断罪することなどできるものか!むしろ断罪しようとすればするほど、黒いエロティシズムは聖なる輝きを放つのだ!」ということではないでしょうか。つまり、澁澤龍彦氏は、「セクシュアルな表現の開放(解放)論者」ではなく、「エロティシズムの擁護者」なのです。