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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

『CLANNAD』における「家族」の意味について

以下の拙稿は、PCゲーム『CLANNAD』に関する考察です。

CLANNADのテーマは、「家族」であると言われる。

たしかに、CLANNADでは、朋也とその父である直幸との冷え切った家族関係や、古河家の温かい家族関係が描かれている。

だが、私は、CLANNADのテーマである「家族」とは、辞書的な意味での「家族」ではないと考えている。

というのも、「CLANNADのテーマは『家族』である」と言う場合における「家」とは、「血」に係わるものではなく、何もかも変わらずにはいられないとしても、「好きでいられるこの場所」、或いは「この場所を好きでいられるということ」ではあるまいか、と思うからである。そう思うのは、「なにもかも……変わらずにはいられないです。……それでも、この場所が好きでいられますか。」という、作中の渚の台詞があまりにも印象的であり、作品を貫いているなにか根本的な理念を表しているように感じられるからだ。

朋也が、渚が、春原が、探し求めていたのは、「何もかも変わらずにはいられないとしても、好きでいられる場所」である。その場所として、彼らは演劇部を選んだ。しかし、彼らはいつまでもその場所に留まることはできなかった。なぜなら、卒業しなければならない――何もかも変わらずにいられないから、である。また、朋也は「好きでいられるこの場所」として、古河家を選んだ。しかし、やはり朋也はいつまでもその場所に留まることはできなかった。なぜなら、大人にならなければならない――何もかも変わらずにいられないから、である。

そうだとすれば、彼らは未来永劫「何もかも変わらずにはいられないとしても、好きでいられる場所」に辿り着くことができないのではないか。否、そうではない。「何もかも変わらずにはいられないとしても、好きでいられる場所」は、「ここではないどこか」にあるのではなく、「ここ」にある。つまり、「何もかも変わらずにはいられないとしても、好きでいられる場所」とは、「〈自分である〉ということ」である。

もっとも、朋也が「〈岡崎朋也である〉ということ」を好きでいられるのは、単に<岡崎朋也である>からではないであろう。それは、古河渚の隣である「〈岡崎朋也である〉ということ」だからであり、また春原陽平の隣である「〈岡崎朋也である〉ということ」だからである。渚が「〈古河渚である〉ということ」を好きでいられるのは、岡崎朋也の隣である「〈古河渚である〉ということ」だからであり、また古河秋生・早苗の隣である「〈古河渚である〉ということ」だからである。杏が「〈藤林杏である〉ということ」を好きでいられるのは、岡崎朋也の隣である「〈藤林杏である〉ということ」だからであり、また藤林椋の隣である「〈藤林杏である〉ということ」だからである。

そのような、「〈自分である〉ということ」という自分の居場所=「家」を好きでいられるのに必要な人との縁こそが、CLANNADのテーマである「家族」の意味ではあるまいか。そして、そのような縁を結ぶ「エロス」の〈力〉こそが、「町の意志」であり、「幻想世界の少女」ではあるまいか。そんな気がするのである。