我ながら、前エントリは、いささか非合理的でオカルティックだったように思います。
そんな拙稿と比べて、東京都が主張する、築地市場の豊洲への移転理由は、なんと合理的なもの(http://www.shijou.metro.tokyo.jp/toyosu/faq/01.html#qa1-1)でしょうか。
施設の老朽化や食の安全はともかく、経済的合理性を考えれば、移転に反対する理由はないようにも思えます。
しかし、はたして「合理性」という物差しは、世界を余すことなく、正しく測ることができるものなのでしょうか。
突拍子もないことを言うように思われるかもしれませんが、私は人間なので、死が怖いです。
ですが、科学的合理主義は、人間から死の不安と恐怖を遠ざけてくれました。その点に関しては、私は科学的合理主義に、素直に感謝したいと思っています。
しかし、「合理性」という物差しを万能だと盲信しすぎるとすれば、それによって私たちは、「合理性」という物差しでは測ることのできない「外」の世界を見る能力を奪われてしまうでしょう(誤解のないようお断りしておきますが、私は決して、科学を軽視してもよいと言いたいのではありません。)。
もっとも、閉じた世界で生きていくことができるのであれば、そのような能力などもはや必要ないのかもしれませんが……その答えを、閉じた世界で生きる私たちが、どうして知ることができましょうか。