あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

ポルノグラフィーを制約してよいのは、「エロ」だけである。

かねてより申し上げておりますが、私は、いわゆる漫画やゲーム等の性的な表現を、公権力によって規制することに反対する者です。

ですが、性的な表現が全く無制約であってよいかといえば、そうは思いません。

こんなことを言えば、「オマエは性表現の規制に賛成するのか、この嘘つきが!」とお怒りになる方もいらっしゃるかもしれません。どうか、そうお怒りにならずに、私の駄文にしばしお付き合いいただければ幸いです。

結論から申し上げれば、私が言いたいのは、ポルノグラフィーを制約してよいのは「エロ」だけである、ということです。

私たち人間は、裸体に性的な興奮を覚えます。しかし、もしも私たち人間が、動物のように衣服を身に纏っていなかったとしたら、私たちは果たして裸体に性的興奮を覚えたでしょうか。裸体は、裸体だからエロティックなのではなく、衣服を脱いだ姿だからエロティックなのではないでしょうか。

さらに、私たち人間は、性器に性的な興奮を覚えます。しかし、もしも性器が「隠されなければならないもの」でなかったとしたら、私たちは果たして性器に性的興奮を覚えたでしょうか。性器は、それが「隠されなければならないもの」だから、それを見られることが恥ずかしいから(「隠さなければならないもの」だから露出するのが恥ずかしいのか、それとも露出するのが恥ずかしいから「隠されなければならないもの」のかはさておき)、エロティックなのではないでしょうか。

それゆえに、ポルノグラフィーがエロティックであるためには、性器は隠される必要があると思うのです。

こうして考えてみると、かの性器解放(開放)論者の賛同者がポルノグラフィーの規制推進を主張するのも、賛否は別として、一貫性のある態度だといえるでしょう。性器解放論は、性的表現の自由を唱える主張のようであって、実はポルノグラフィーを死に至らしめる主張であるように思えてなりません。

さて、こんなことを言えば、もしかすると「ならば、ポルノグラフィーがエロティックであるためには、性器だけでなく、裸体も隠される必要があるといえることになってしまわないか」との批判をいただくかもしれません。

誤解なきよう申しますが、私はべつに、何でもかんでも「隠されればよい」と言いたいのではありません。性器だから隠される必要があるのではなく、裸体の局部たる性器だからこそ、隠される必要があると言いたいのです。というのも、性器は、性器だからエロティックなのではなく、裸体の局部たる性器だからエロティックだと思うからです。

「いや、私は性器を見ることで性的興奮を感じたいのだ。なのに性器を隠してしまっては、性的興奮を感じることができないじゃないか」との批判もあるでしょう。しかし、「隠す」ことは、必ずしも見えなくしてしまうことではありません。性器というそのものを隠すのではなく、あくまでも裸体の局部たる性器を隠すのです。そして、性器を裸体という全体の一部としてとらえるならば、それを隠すことは、むしろそれを強調することにもなるのではないでしょうか。

先にも述べたように、裸体は、「隠されるべきもの」が剥かれた姿だからこそエロティックなのです。だから、裸体がエロティックであるためには、剥かれた姿となってもなお「隠されるべきもの」でなければなりません。そうでなければ、私たちは裸体を見ることに、禁忌を侵犯する歓びを感じることはできない気がします。それゆえ、裸体の局部である性器が隠されることで、裸体をエロティックな聖なるものへと高めなければならないのです。

そうして、「隠されるべきもの」を曝け出そうとする力と、「隠されるべきもの」を隠そうとする力の鬩ぎ合い、「露出と隠蔽の弁証法」ともいうべき聖なるエロティシズムの運動が、私たちをこの上ないエロティックな興奮へと導くのでしょう。

澁澤龍彦氏は『エロティシズム』のなかで、「タブーが完全に取り払われたとき、はたしてエロティシズムが生きのびられるものかどうか、わたしには全く確信がない」と述べています。性器を隠すことは、ポルノグラフィーがポルノグラフィーとして生きのびるための、たったひとつ残された「タブー」である、そんな気がするのです。