あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

つまるところ、信仰の問題。

大学の自治に一石 京大私服警官取り押さえ

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20141109000014

京大熊野寮捜索、学生らともみ合いも 大学には事前通告

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20141114000001

警察当局は、京大の彼らが所属するとされる団体を「暴力で共産主義社会をめざす」過激派であると評しています。世間一般の評価も警察当局のそれと同じであることは、言うまでもありません。そして、このような評価を基とすれば、「警察当局=正義、過激派=悪」という図式が成り立つでしょう。しかし、はたして「警察当局=正義、過激派=悪」という図式は絶対的なものなのでしょうか。

きっと、過激派と呼ばれる彼らは言うでしょう。「我々が暴力で共産主義社会をめざすのだというのならば、公権力は、暴力で資本主義社会を維持しようとするのだ。」

こんなことを言えば、「日本は法治国家だ!」と、または「悪である過激派を取り締まって何が悪い。正義である警察による取り締まりを悪である過激派の暴力と一緒にするなんて言語道断だ!」と批判されるかもしれません。

しかし、私が思うには、問題となった公安警察の活動(大学の自治に一石 京大私服警官取り押さえ http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20141109000014)が、はたしてデュー・プロセスに則ったものであったといえるかは甚だ疑問が残ります。また、公権力の行使も多かれ少なかれ暴力性を秘めるものであることは否定しがたいでしょう。

念のためお断りしておきますが、私は別に、暴力革命を賛美するつもりはありません。私が言いたいのは、公権力と過激派と呼ばれる彼らのどちらが正義でどちらが悪かということは、つまるところ、信仰の問題であるということです。すなわち、資本主義教徒と共産主義教徒の宗教戦争だと言えるのではありますまいか。

※参考

過激派に加わる学生、今どきの理由 対策に本腰の大学も - 朝日新聞デジタル http://t.asahi.com/gf8f