あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

エロを敵視し排斥しようとする人々のココロについて、少しだけ考えてみた。

「エロは悪である」――そう断言して憚らない人達の中で、果たしてどれだけの人が、なぜ「エロは悪である」のか考えたことがあるのでしょうか。

この、「なぜ『エロは悪である』のか」に関しては、以前のエントリで私なりの考えを述べましたので、今回は敢えて触れないこととします。

その代わりと言ってはなんですが、本エントリでは、彼ら(彼女ら)がなぜ「エロ」を「悪である」として敵視し排斥しようとするのかに関して、私なりに思うところを述べてみます。

彼らが「エロ」を「悪である」として敵視し排斥しようとするのは、単に気に入らないから――このように結論付けてしまうのは、いささか浅薄であるように思われます。

私が思うに、まず、彼らにとって「エロ」は異質なものであるいえます。もちろん、彼らだって「性的なこと、もの」と一切関わることなく生きてはいないのでしょう。しかし、ここで重要なのは、彼らの主観において「エロ」が異質なものであるということなのです。

さて、彼らにとって「エロ」は異質なものであるからといって、それがただちに「エロ」を「悪である」として敵視し排斥するという態度につながるものではないことは、言うまでもありません。なぜなら、たとえ異質なものであっても、それを受け入れながら共存するという態度も採り得るからです。

それでは、なぜ彼らは異質なものを敵視し排斥するという態度を選択するのでしょうか。

おそらくそれは、彼らが「善い人間であること」を自ら確かめて実感したいがためでしょう。それはちょうど、他人の不幸を眺めることで、自分の幸福を確かめて実感するのと同じように。逆に言えば、彼らは「エロ」という異質な「悪」が無ければ、自らが「善い人間であること」を確かめて実感することができないのかもしれません。

そうだとすると、もしも彼らがこの世界から「エロ」を排斥することを成し遂げたとすれば、もはや彼らは「善い人間であること」を自ら確かめて実感することができなくなってしまうのでしょうか。いいえ、きっと彼らは、また新たに別の異質なものを「悪」として敵視し排斥しようとするだけだと思います。

それにしても、どうして彼らは、そんなにも「善い人間であること」を自ら確かめて実感したいのでしょう。私が思うに、彼らにとって「善い人間であること」は、この上なく大切な自らの存在意義なのかもしれません。だとしても、彼らの存在意義は、異質なものを敵視し排斥しなければ保持できないほど脆く儚いものなのでしょうか。

私たちは、性的表現を「悪」であるとして敵視し排斥しようとする人々に対して、異を唱えます。しかし、もしかすると私たちも、自分たちとは異質なものを「悪」であるとして敵視し排斥しようするという、彼らと同じ過ちを犯してしまってはいないでしょうか。この点に関してはやはり、彼らと同じ過ちを犯さぬよう、常に自戒を怠ってはならないと思うのです。