葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「モザイク処理」考

表現規制反対派諸兄諸姉の中には、性器部分の修正処理に関しても反対する方々もしばし見受けられます。

たしかに、性器部分の修正処理に関しては、本当のところそれを正当化する合理的な理由を見出すことは困難であるのかもしれません。また、なぜ性器部分の修正であるのかについても、それはただある種の宗教的価値観が形骸化したものの名残りに過ぎないのかもしれません。

そうだとすると、性器部分の修正処理はナンセンスであるとの主張も一理あるといえます。

しかしながら、性器部分の修正処理は、はたして性的な表現のエロティックな本質を決定的に失わせてしまうものなのでしょうか。

私が思うに、裸体は、裸であるからエロティックであるのではなく、衣服を脱いだ姿であるからエロティックであるのです。すなわち、エロティシズムを「禁止に対する侵犯の歓び」であると解するならば、裸体という動物性に対し文明が禁忌を課したものの表れである「衣服」を脱いだ姿であるからこそ、裸体はエロティックであるのです。

そうだとすれば、たとえ裸体の性器部分にモザイク修正処理を施したとしても、「衣服を脱いだ姿であるという裸体性」が失われないのであれば、決して性的な表現のエロティックな本質は失われないのではありますまいか。

さらに言えば、人間は隠されれば隠されるほど見たい知りたいという欲求が高まるものであり、それゆえ裸体の性器部分が隠されることはむしろエロティシズムの衝動を高めるのではないでしょうか。

個人的な趣味嗜好かもしれませんが、私などは全裸よりもむしろ半裸やチラリズムのほうがエロティックに感じてならないのです。

「本当の意味のエロティシズムとは、空想の余地を残したエロティシズム、全部をさらけ出すのではなく、暗示することによって、かくれたものを想像させるエロティシズムである。」(澁澤龍彦『乳房、たまゆらの幻影』)

なお、誤解なきようお断りしておきますが、私自身は決して昨今の性表現規制の流れに賛同する者ではありません。ただ、性表現規制問題を考えるにあたって、性器部分の修正処理の肯否に拘泥することは、問題の本質を見失うことにもなりかねないと思うのです。