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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

昨日の私と、今日の私と、明日の私。

自分語りで恐縮ですが、私は子供の頃(それこそ“中2”の頃(!))から20代の半ばまで、或る世界の或る組織に憧れ、その世界のその組織の一員となることに自分の時間を費やしました。

その頃の私は、その組織こそがこの国の正義を実現する者であると信じて疑いませんでした。

そして、その組織の一員として正義を実現することこそが、私の人生にとって最も有意義なことであると信じて疑いませんでした。

しかし、現在の私は、“あの時”の私とは正反対の立ち位置にいます。それは、社会的な立ち位置という意味以上に、思想信条的な立ち位置という意味で。現在の私にとって、正義ほど疑わしいものはありません。

その切欠は、或る夏の日の、あの時の選択でした。

私がその選択とは別の選択をすることを妨げるものは、私の能力的なもの以外にはこれといって考えることができません。つまり、その妨げるものをあえて無視して別の選択をすることも可能だったわけです。

別の選択をすることを妨げるものが私の能力的なものである一点に鑑みれば、端から見るとそれはただの“挫折”なのでしょうし、その選択以前の私からすればその選択は間違いなのかもしれません。ですが、現在の私からすればその選択は正しいのであって、たとえ“挫折”の名で呼ばれるものであったとしても、するべくしてした選択なのです。

もっとも、もしもあの時に私が別の選択をしたとしても、現在の私とは別の“現在の私”は幸せかもしれませんし、あるいは不満を抱いてさらに別の選択をするのかもしれません。

結局のところ、現在の自分が抱いている理想や価値観を、10年後の自分が同じように抱いている保証などどこにもないのでしょう。

もしかすると、昨日の「私」と、今日の「私」と、明日の「私」は、同じ「私」のように見えて、本当はそれぞれ別の「私」なのかもしれません。もしかすると私の人生は、ひとつの連続したもののように見えて、本当は不連続なフラグメントを寄せ集めたものなのかもしれません。

そうだとすると、例えば今日の私が“いまこのとき”に不満を抱いていたとして、その不満の原因を昨日のあの時の選択に求めたとしても、本当の原因は“いまこのとき”の選択であると言えますまいか。だとしても、明日の私が、今日の私の“いまこのとき”の選択とは違った選択をすることで満足を得ることも考えられるでしょうし、明後日の私が、今日の私の“いまこのとき”の選択を受け容れることで満足を得ることも考えられるでしょう。

或る人は、「価値ある人生を生きろ」と言います。でも、別の或る人は「人生に生きる価値はない」と言います。

しかし、「客観的な価値」のある「人生」なんてそもそも無くて、というよりも価値のある「客観的な人生」なんてそもそも無くて、自分自身がその時々に意味を付与していくものそれこそが、「人生」なのではありますまいか。