あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

選択の「責任」

しばしば、「政権の暴走は、有権者である国民の責任である」といった主張が見聞されます。

かかる主張は、一見すると至極“正論”であるように思われます。ですが、一方でそれに違和感を覚える人も少なくないかもしれません。つまり、「たしかに私は有権者であるが、でも政権を支える議会多数派に属する議員を選挙で選んではいない」というように。

だとすると、多数派を選んでいない有権者である「国民の責任」とは、多数決で負けたことの責任、いわば“ゲームの敗者”として負う責任なのでしょうか。

「そうだ、その通りだ。選挙という公平な“ゲームの敗者”として負う責任なのだ」と言う人もいるかもしれません。

ですが、やはり私は、たとえ権利行使の機会が公平に(あくまでも“機会”がですが)与えられたとはいえ、それのみをもって多数派に服従することを敗者の責任として強いることは、支配者と被支配者の乖離を原則的に承認するものであって、憲法学などにおいて「治者と被治者の自同性」と定義される“民主主義”に悖ると言わざるを得ないのではないか、そう思うのです(なお、よくある誤解ですが、決して“民主主義=多数決”ではありません。)。

だからといって、「この政権の暴走、どうしてくれる!」と、選挙において政権を支える議会多数派に属する議員を選んだ人々を責めたところで、どうにかなるものではありません。なぜなら、政権を支える議会多数派に属する議員を選挙で選び、現在もなお政権を支持する人々は「政権の暴走」だと思っていないのですから。

そうは言っても、政権を支える議会多数派に属する議員を選挙で選んだものの、その選択を現在は後悔している人も皆無ではないでしょう。ですが、そのような人の「選んだ過ち」を責めたところで、はたして政権に抗議する人々の理想は叶うのでしょうか。また、自らの選択を過ちとして悔やむ人は、ただ自らの過ちを悔やみ自分を責めるだけで、現在の自分が抱く理想を叶えることはできるのでしょうか。

私が思うに、「有権者である国民の責任」とは、敗者としての責任でも自らの選択の過ちについて他人に対して負う責任でもなく、自分の過ちを悔やみ自分を責めるものでもありません。それは、自らの理想を現実のものとするべく選択を重ね、自らの理想を現実のものとすることを自らに約束しそれを果たすという、いわば過去ではなく未来の自分自身に対する「責任」であると思うのです。

もっとも、私のこんな言説は、大人なリアリストの諸姉諸兄からは、しょせんは理想(空想)主義者の戯言だと言われるかもしれませんが……。