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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

民主主義って、いったい何だろう?

東京新聞:「絶叫デモはテロ行為」 石破幹事長 市民活動、テロと同一視:政治(TOKYO Web) http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013120102000127.html

 

今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。(自由民主党・石破幹事長のブログ)

 自民党の石破幹事長は、政権が成立を急いでいる法案に反対する人々の抗議活動を、「ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為」と仰ります。

だが、たとえば“政治”に対する関心の低い“国民”からすれば、己の主張を絶叫するならまだしも己の名前と「よろしくお願いします」をひたすら絶叫する選挙活動も、「多くの人々の静穏を妨げるような行為」となんら変わらないのではないでしょうか。

しかし、こんな事を言えば、きっと政治家の先生方は「民主主義を愚弄するのか!」とお怒りになるでしょう。たしかに、こんな事を言うのは低レベルな揚げ足取りかもしれません。ですが、石破氏の発言も私には正直言って同じレベルに思えてならないのです。

また、石破氏は「主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであ」ると、いかにも“正論”であるような事も仰ります。ですが、はたして政権は己の主義主張を実現するために、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げる努力を尽くしているでしょうか。

かかる問いに対しては、政権は「民主主義の手続に則り事を進めていることに、何の問題があるだろうか!」と憤慨するかもしれません。

しかし、憲法学などにおいて「治者と被治者の自同性」と定義される“民主主義”ですが、代議制民主主義の下で皮肉にも「治者と被治者の乖離」が生じてしまっている現状においては、形だけ民主主義の手続に則り事を進めるだけでは、決して真の民主主義が実現されることはないでしょう。

日本国憲法が代議制民主主義を採用している以上、議会を通じて政治的意思決定がなされるのが基本であることは言うまでもありません。ですが、「治者と被治者の自同性」という民主主義の本質が回復されるためにも、議会外の主権者たる国民の声(たとえそれが政権にとっては“雑音”であろうとも)を充分に斟酌した上で政治的意思決定がなされなければならないと思うのです。それとも、政権の意にそわない主張を絶叫するような人々は、もはや主権者たる国民ではないのでしょうか。

 “民主主義”は、いまやそれぞれの立場の人間が自分に都合良く使うことのできる便利な言葉となってしまったのかもしれません。私自身も、本エントリで“民主主義”という言葉を自分に都合良く使ってしまっているのかもしれません。

ですが、だからこそ、いま一度“民主主義”の意味を再考し、そのために学ぶことを怠ってはならないのではないかと、自戒を込めて……。