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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

性器を隠すことの意味。

性器を隠すことの意味は、少なくとも現代日本においては、その起源は遥か遠い彼方へと忘れ去られ、いわば“形骸化した慣習”に成り果てたといってもよいかもしれません。

しかし、だからこそその本来的な意味について今一度考えてみることは、性表現に関する諸問題を考えるうえで、無駄であるとはいえないのではないでしょうか。

さて、性器をタブーとして隠すことの本来的な意味については諸説ありましょうが、私は、つまるところ“死への恐れ”ではないかと考えます。

すなわち、人間はこの世に生を享けると同時に、死の所有物となる。それゆえ、人間にとって<生>の根源として聖なる存在であったはずの性器は、<生>を<死>の手に引き渡す、恐れるべき忌むべき存在となってしまった。

そしていつしか<生>の断罪の歴史を経るとともに、“死への恐れ”が“猥褻”という概念にすり替えられてしまったのではないでしょうか。

こうして考えると、性器が“猥褻”であるというのは、“死への恐れ”を覆い隠すためのものであって“猥褻”であるということそれ自体は空虚で形骸化したものであるといえましょう。

しかしながら、そうであるからといって「性器を隠すことはナンセンスである」と断言してしまうのは、エロティシズムの見地からするといささか早計であるように思えます。

それは、次のような理由によります。

エロスが〈生〉を肯定する力であることに鑑みれば、否定的なものを肯定的な力で破壊したい衝動こそがエロティシズムであると考えられます。そうだとして、裸体はなぜエロティックなのか。それは、裸だからエロティックなのではなく、衣服を脱いだ姿だからこそエロティックなのです。なぜなら、衣服という人間的な、あまりにも人間的な“理性”の産物があってはじめて、それを破壊したい衝動が生まれるからです。

そして、このことは性器を隠すモザイク処理についてもいえるのではないかと思うのです。つまり、モザイク処理という“理性”の産物があることよって、よりエロティシズムの衝動が高められるのではないでしょうか。

かく考えることに対しては、「欧米ではポルノにおける性器露出は寛容である」との批判が当然予想されます。しかし、性器をタブーとする思想が西洋のある種の宗教的倫理を起源とするものと思われることからすると、むしろ欧米における態度は逆に不思議でなりませんし、欧米の基準がエロティシズムを考えるうえで絶対であるとはいえません。

もちろん、私は性表現の規制推進論者ではありません。むしろ、彼(彼女)らとは正反対の人間です。

性表現の規制推進論者は、性表現を抑圧しようとすればするほど性表現が〈聖性〉を高めることを知るべきでしょう。

しかし他方で、極端な性の開放(解放)論者は、自論を極端に推し進めることがやがてエロティシズムを自死に追い遣ることを知るべきだと思うのです。