「人間の遊び、真に人間的な遊びは、まずは労働であった。つまり、遊びとなった労働だったのである。」(ジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』森本和夫訳)
「好きなことを仕事にしたい」
これはきっと、誰もが一度は思い描いたことのある理想ではないでしょうか。
ですが、「好きなことを仕事にしてはいけない」というのも、また一理あることは否定できません。
それはおそらく、仕事の目的が究極的に“お金”を得ることになってしまったこと、そして、その仕事は自分のものではない、他の誰かのものとなってしまったことに因るのだと思います。
かく考えることに対しては、「仕事の目的として“お金”だけではなく“やりがい”も求めれば良いのではなかろうか」との反論もありましょう。
しかし、たとえどんなに仕事によって“やりがい”を感じることができたとしても、もしも仕事の対価として賃金が支払われなかったとしたら、“やりがい”は酷く色褪せしまいには脆く消え去ってしまうのではないでしょうか。
そうすると、いまやわたしたちは「好きなこと」を労働の外の「遊び」に求めなければならないのでしょうし、それが現時点では最善の策といえるでしょう。
しかし、労働では満たされない欲求の埋め合わせを「遊び」ですることを突き詰めてしまった場合、いつしか「遊び」が労働に転化してしまいやしないでしょうか。つまり、遊びそのものによって快楽を得ることを目的とするはずの「遊び」が、労働では満たされない欲求の埋め合わせのための手段たる「労働」になってしまいやしないかと思うのです。
「仕事の疲れを癒やし、あすの労働の活力を汲むためにレジャーを利用するという姿勢は、一見、健全な精神状態を示しているかのように思われますけれども、レジャーが労働のための手段であったり、逆に労働がレジャーのための手段であったりするような社会は、大部分の民衆にとって、けっして究極的な、望ましい社会ではありません。」(澁澤龍彦『快楽主義の哲学』文春文庫)
本当は、遊びを労働にではなく、労働を遊びにできればいちばん良いのかもしれません。それはきっと、叶わない絵空事なのでしょうけど。