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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

正しいおっぱいとは、何か?おっぱいが「正しい」とは、どういうことか?

どうやらネット界隈で、「二次元萌え系美少女のおっぱいは偽物だ、日本の萌え漫画家は本物のおっぱいを知らない」云々といったツイートが物議を醸しているようです。

(参照:「いかに日本の萌え漫画家がモノホンのおっぱい知らないかがようわかるのうw」

http://togetter.com/li/567779

日本の萌え漫画家が本物のおっぱいを知らないかどうかはさておき、果たしていわゆる「萌え絵」が、実際の人体構造に忠実でないことがそんなに間違ったことであるのか(つまるところ、それはリアリズムと非リアリズムの対立に帰着する気もしないではないですが)、私なりに少々考えてみたいと思います。

まず、「二次元萌え系美少女のおっぱいがオカシイ、ヘンだ」ということの裏返しとして、「“実物”こそ正しい、“自然の造型”こそ正しい」という認識があると考えられます。ここで、問題となる萌え絵に対する非難は単に人体構造的におかしいといっているものにすぎないとも考えられますが、やはり「萌え絵」という視覚的に楽しむものに対する非難である以上、「正しい=美しい」という意味を前提として考えていきたいと思います。

そうだとして、たしかに世の中には「自然美」という観念があります。私自身、美学に関しては全くの不勉強の門外漢ですが、「実物こそ美しい、自然の造型こそ美しい」という認識はおそらく自然美的価値に基づくものなのでしょう。

しかし、そもそも美の対象である自然は、美しく観られるためにその姿をしているのでしょうか。逆に、「ブサイク」な姿をしているといわれる生物は、人間に「ブサイク」だと言われるためにその姿をしているのでしょうか。もちろん、そうではなく、その姿が最もその生物の生活する環境に合ったものだからなのでしょう。

つまり、「自然の造型こそ美しい」という命題は、人間の持つ「美」という観念があってはじめて成り立つものであって、人間の存在以前に成り立つものではないといえるのではないでしょうか。別の言い方をすれば、「美」は人間に起源を持つものであって、美の対象そのものに起源を持つものではないといえるのではないかと。

そうであるとすれば、「美」という意味での「正しさ」は、「実物」に束縛される「正しさ」ではなく、それは観念的な、あまりにも観念的なものであって、あらゆる直感や理想や願望などを一旦抽象化し純化して、それをさらに具現化することも自由にできる、自由精神的な「正しさ」であると私は考えます。

ゆえに、「二次元萌え系美少女のおっぱい」がたとえ実物のおっぱいとは異なるものであったとしても、それは人間の直感や理想や願望など(とはいっても特定のカテゴリーの人々の直感や理想や願望などなのでしょうが。そして、なにを隠そう、私もその人々のうちの1人ではありますが…)を具現化したものであり、「美」(眉を顰められる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここでは「萌え」を美の文脈で語ることをお許しください)という意味の「正しさ」においては、決して間違ったことではないのです。

すなわち、「おっぱい」の美しさ(=正しさ)は実物のおっぱいからは独立して存在する観念であり、したがって「二次元萌え系美少女のおっぱい」の美しさ(=正しさ)も実物のおっぱいからは独立して評価することができるのです。

もっとも、初めに書きましたように、つまるところリアリズムと非リアリズムの対立に帰着するとしてしまえば、あまり議論する実益のある話ではないのかもしれませんが…。