あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

「エロ」は悪ではない。しかし、「エロ」は背徳である。

「タブーが完全に取り払われたとき、はたしてエロティシズムが生きのびられるものかどうか、わたしには全く確信がないからである。」(澁澤龍彦『エロティシズム』中公文庫)

私自身の考えも、「エロ」は絶対悪ではないが、しかし“市民権”を認めてもらいたいとは決して思わない、というものです。

たしかに、自分の嗜好を世に認められたいという気持ちも分からなくはありません。

しかし、ことに「エロ」に関しては、“道徳”の支配する空間において価値を認められてしまうや否や、たちまちそれは道徳に飲み込まれ、自らの存在意義を喪失してしまうのではないでしょうか。

それゆえ、「エロ」が「エロ」であるためには、決して「エロ」を支配的な価値観の下に置いてはならないと思うのです。強く眩しい陽射しの下では、「エロ」は花を咲かせることなく枯れてしまうのです。

すなわち、「エロティシズムは悪ではない。しかし、エロティシズムは背徳である。」。

かく考えることに対しては、反道徳的であれば悪なのではないか、との批判もありましょう。

しかし、エロティシズムが背徳であるとは、悪であるという意味ではなく、エロティシズムは人間が作り出したにすぎない“道徳”などというものを超越するものである、といってよいかもしれません。

そして、人間が作り出したにすぎないものを超越するものであるからこそ、エロティシズムはまさに「生」であるといえるのかもしれません。

最後にひとつ。

「私は、エロティックな表現に“市民権”を認めてもらいたいとは決して思わないのです。ただ、エロティックな表現を享受する密かな楽しみを妨げられたくないだけなのです。」