葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日本は、アメリカの戦争の「共犯者」であることをただちにやめろ。

司令官殺害 イランは報復措置の考え アメリカとの衝突に懸念 | NHKニュース

 

アメリカがイランと戦争を始めたら、日本もアメリカの戦争に巻き込まれてしまう」と言う日本国民が少なくありません。

たしかに、アメリカがイランと戦争を始めれば、アメリカの「同盟国」である日本も無関係ではいられないでしょう。しかし、それは決して「アメリカの戦争に巻き込まれてしまう」のではありません。なぜなら日本は、アメリカの戦争にれっきとした「共犯者」として関係するのですから。

自衛隊員の尊い命が危険にさらされてしまうから、戦争に反対だ」と訴えるリベラル派は、いったい何のために自衛隊が中東へ赴くと思っているのでしょうか。自衛隊は、政府が言うような「国際貢献」のために中東へ赴くのではありません。「同盟国」であるアメリカの戦争に協力するため、つまり人殺しに協力するために中東へ赴くのです。自衛隊員を思い遣るのも勿論結構ですが、自衛隊が協力するアメリカの戦争によって殺される人たちのことも思い遣るべきです。

もっとも、自衛隊員を思い遣ろうが、自衛隊が協力するアメリカの戦争によって殺される人たちのことを思い遣ろうが、「戦争反対」に違いはないかもしれません。しかし、たとえ自衛隊が中東に派兵されなくても、「安全保障」に名を借りた日米軍事同盟の下で日本が支援する在日米軍が、日本の基地から出撃してイランの人々を殺すのであれば、日本がアメリカの戦争に加担することに変わりありません。ベトナム戦争当時、日本の市民は、なぜ日本の基地からベトナムの人々を殺すために出撃する在日米軍を阻止しようと闘ったのでしょうか*1。それは、日本が支援する在日米軍が日本の基地からベトナムの人々を殺すために出撃することが、たとえ間接的といえども日本の戦争加害にほかならないからです。

アメリカがイランと戦争を始めたら、日本もアメリカの戦争に巻き込まれてしまう」と言う日本国民の多くは、おそらく「戦後日本は、憲法9条のおかげで戦争に巻き込まれずに済んだ」という認識なのでしょう。たしかに、「戦後日本」は戦争で自らのを血に染めてこなかったかもしれません。しかし、実際には、「戦後日本」は憲法9条があるにもかかわらず、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争アフガニスタン紛争、イラク戦争……と、「盟主」アメリカの戦争に加担してきました。そして、今もなお、「安全保障」に名を借りた日米軍事同盟の下でアメリカの戦争に加担し続けているのです。

日本国憲法の「平和主義」を日本の戦争加害を忘れるためのものにしてしまわないためにも、日本はアメリカの戦争の「共犯者」であることをただちにやめて、アメリカの戦争に断固として反対しなければなりません。私も日本の人民として、アメリカの戦争に断固として反対します。しかし、それは戦争の被害者にならないためではなく、加害者にならないためにするものです。

それにしても、日本国民はどうして「戦後日本」の戦争加担に、こうも無頓着なのでしょうか。思うに、それは過去の日本の戦争加害の歴史と真摯に向き合おうとしないからです。つまり、過去の日本の戦争加害の歴史と真摯に向き合おうとしないから、現在の日本の戦争加害とも向き合えないのです。

 

「徴用工問題」は、日本側が責任をもって解決すべき問題である。

日韓首脳会談、徴用工問題は平行線 文氏は解決策示さず:朝日新聞デジタル

 

朝日新聞は、「会談で文氏からは(徴用工問題の)新たな解決策は示されなかった」などと書いていますが、どうして文在寅大統領が日帝強制動員問題の解決策を示さなければならないのでしょうか。朝日新聞の記者は勘違いしていますが、日帝強制動員問題(徴用工問題)は、日帝の植民地支配による加害責任の問題なのですから、あくまでも日本側が責任を持って解決すべき問題です。したがって、もし日帝強制動員問題の解決策を示す必要があるとしても、それをすべきなのは韓国側ではなく日本側です。しかるに、安倍氏が「韓国側の責任において解決策を示して欲しい」などと韓国側に求めることは、責任転嫁に他なりません。

日本政府によれば、安倍氏は「元徴用工らへの賠償問題は日韓請求権協定で解決済みとの立場」から、韓国側に対して「韓国側の責任において解決策を示して欲しい」と求めたのだそうです。しかし、日帝強制動員被害者らへの賠償問題が日韓請求権協定で解決済みだというのは、安倍氏の誤解です。なぜなら、そもそも日韓請求権協定は、たとえそれが「(日韓)両国及びその国民の財産並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題」を完全かつ最終的に解決したとしても、それは決して日帝強制動員被害者らへの賠償問題を完全かつ最終的に解決するものではないからです。つまり、日韓請求権協定は、それに基づき日本が韓国に対して供与した5億ドルの趣旨が「独立祝い金」であって賠償金ではないというのもありますが*1、より根本的には、日韓請求権協定が、米日韓三角軍事同盟を支える「日韓65年体制」という新植民地主義的な体制を確立し維持するために、日本が韓国の「親日政権」を経済的に支える一方、その見返りとして、日帝による朝鮮植民地支配の不法性を不問に付し、「親日政権」が日帝植民地支配の被害者を強権的に抑圧するものであって、日帝植民地支配にまつわる賠償問題を何ら解決するものではないということです。

このように、日韓請求権協定がいわば「臭い物に蓋をする」だけのものであって、日帝植民地支配にまつわる賠償問題を何ら解決しない以上、前述のとおり日帝の植民地支配による加害責任を負っている日本側が主体的に問題解決に取り組まなければなりません。もっとも、日本側は、問題解決のために新たな解決策を示す必要はありません。なぜなら、加害企業が韓国大法院の判決*2を誠実に履行し、日本政府が日帝による朝鮮植民地支配の不法性を認めて加害企業による判決の誠実な履行を妨げないこと以外に、日帝強制動員問題を完全かつ最終的に解決する方法はないからです。

差別も貧困も、本当は「社会のせい」である。

先日、インターネット上で「差別をなくすよりも、まず先に貧困をなくすべきだ」という意見を目にしました。この意見に共感する人も少なくないようですが、私はとうてい共感できません。なぜなら、「差別と貧困の、まずどちらを先になくすべきか」という問いが、そもそも間違っているからです。

「差別をなくすよりも、まず先に貧困をなくすべきだ」という意見の持ち主は、貧困が差別を生み出すと考えているようです。しかし、それは誤解です。差別も貧困も、「力」を持った人たちによって作られた社会の構造が生み出すものです。したがって、差別も貧困も、それをなくすには「力」を持った人たちによって作られた社会の構造をこわさなければならないのであり、問題解決の優先順位を付けることはそもそもナンセンスなのです。また、差別と貧困の関係についていえば、差別は「力」を持った人たちによって作られた社会の構造が生み出すものですから、貧富とは無関係です(もしかすると、貧困が差別を生み出すと考えている人は、差別を「貧困層ルサンチマン」だと考えているのかもしれませんが、それは誤解です)。しかし、差別が特定の属性を持つ個人や集団の社会参加の機会を奪い、貧困を助長するというのは、よくあることです。

このように、差別も貧困も、「力」を持った人たちによって作られた社会の構造が生み出すものですから、つまりそれらは「社会のせい」なのです。「差別や貧困を社会のせいにするな」とよく言われますが、しかし、それは差別や貧困を生み出す社会の構造を温存したい人たちが弄する詭弁にほかなりません。差別や貧困をなくすには、むしろ「社会のせい」にして、社会を変えなければならないのです。

歴史を抜きにして「旭日旗を禁止すべき理由」は語れない。

旭日旗を禁止すべき理由を歴史から語る必要はない。旭日旗が排外主義者によって差別のシンボルとして用いられているという事実を挙げれば十分である」という意見があります。

たしかに、旭日旗が排外主義者によって差別のシンボルとして用いられているのは事実です*1し、それゆえに旭日旗を禁止すべきなのはその通りだと私も思います。しかしながら、「旭日旗を禁止すべき理由を歴史から語る必要はない」という意見には、私は賛同できません。

旭日旗は、なぜ排外主義者によって差別のシンボルとして用いられるのでしょうか。それは、アジアの諸民族を暴力で支配し抑圧した「皇軍」の軍旗だからです。つまり、アジアの諸民族を暴力で支配し抑圧した「皇軍」の軍旗だからこそ、差別主義者が差別のシンボルとして用いるのです。旭日旗は、排外主義者が用いるから差別のシンボルなのでは決してありません。

日本政府は、旭日旗を「これまで半世紀以上にわたり、自衛艦または部隊の所在を示すものとして,不可欠な役割を果たしてきており、国際社会においても広く受け入れられている」と正当化しています*2が、「旭日旗を禁止すべき理由を歴史から語る必要はない」のであれば、これを認めざるを得ないでしょう。しかし、旭日旗がアジアの諸民族を暴力で支配し抑圧した「皇軍」の軍旗として用いられたという歴史に鑑みれば、軍国主義と決別し「平和国家」になったはずの戦後日本が旭日旗を使い続けることなど許されるはずがありません。つまり、旭日旗の禁止は、戦後日本が「平和国家」であるための必須条件の一つなのです。

さて、もし旭日旗が排外主義者によって差別のシンボルとして用いられなくなったとしたら、はたしてスポーツの応援で旭日旗を用いることは許されるようになるのでしょうか。「旭日旗を禁止すべき理由を歴史から語る必要はない」のであれば、旭日旗が排外主義者によって差別のシンボルとして用いられなくなった以上は、スポーツの応援で旭日旗を用いることは許されるようになるはずです。しかし、旭日旗がアジアの諸民族を暴力で支配し抑圧した「皇軍」の軍旗として用いられたという歴史に鑑みれば、たとえ旭日旗が排外主義者によって差別のシンボルとして用いられなくなったとしても、やはり旭日旗を用いることは許されるべきではありません。もっとも、旭日旗がアジアの諸民族を暴力で支配し抑圧した「皇軍」の軍旗として用いられたという歴史を抜きにしても、排外主義者によって差別のシンボルとして用いられてしまった以上、もはや旭日旗を用いることが許されることはない、と言うこともできるかもしれません。しかし、それは「排外主義者によって差別のシンボルとして用いられてしまった」という歴史を考慮するものにほかなりません(ただし、旭日旗は排外主義者が用いようと用いまいと差別のシンボルなのですから、「排外主義者によって差別のシンボルとして用いられてしまった」という歴史は、「旭日旗を禁止すべき理由」として本質的なものではありません。)。つまり、歴史を抜きにして「旭日旗を禁止すべき理由」を語ることなど決してできないということです。

憲法9条は「弾除けのお守り」などではない。

中村哲医師、アフガニスタンで銃撃され死亡 現地で井戸を建設 - BBCニュース

 

アフガニスタンで銃撃され死亡した中村哲さんが憲法9条の大切さを訴えていた*1ことから、「9条では命を守れなかった」と冷笑する9条改憲派が少なからず見受けられます。

たしかに、憲法9条では命を守ることはできません。しかし、それは当たり前のことです。なぜなら、憲法9条は「弾除けのお守り」などではないのですから。

中村哲さんの死を冷笑する9条改憲派は、憲法9条の意義を勘違いしています。憲法9条は、日本が戦争に巻き込まれないためのものではなく、過去の日本の侵略戦争を反省し、戦争の惨禍を二度と繰り返さないことを誓った憲法前文を受けて、日本に二度と戦争をさせないためのものです。そして、日本が自らの手を血で染めることだけではなく、「盟主」の戦争に加担することも憲法9条の意義に反するといえます。これは、憲法前文が「全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,平和のうちに生存する権利を有する」と謳っていることからも明らかです。

しかるに、戦後の日本は、憲法9条が存在するにもかかわらず「盟主」アメリカの戦争に加担してきましたし、今もなお加担し続けています*2。そして、このアメリカの戦争への加担が、日本人がテロの標的とされる一つの要因であることは、以前から指摘されています*3。つまり、憲法9条の存在にもかかわらず日本が「盟主」アメリカの戦争に加担していることこそが、日本人の命を脅かしているのです。もっとも、日本が「盟主」アメリカの戦争に加担していることによって脅かされているのは、日本人の命だけではありませんが。

今回の事件のような悲劇が繰り返されないために日本がすべきことは、憲法9条を変えることではなく、憲法9条が存在するにもかかわらず「盟主」アメリカの戦争に加担している現状を変えることです。また、「憲法9条のおかげで戦後日本は戦争に巻き込まれずに済んだ」と言う9条護憲派も、憲法9条の意義を日本が戦争に巻き込まれないためのものだとするその認識を変えなければなりません。日本国憲法が謳う平和主義は、日本の国土や国民が戦火に見舞われなければ、日本が加担する戦争によって他国の国土や国民が戦火に見舞われてもかまわないとするものではないのですから。

差別はなぜいけないのか

差別はなぜいけないのか。かかる問いは、議論をもてあそぶために発せられることが多いので、それに答えるのは悪手かもしれません。それでも、私はあえてそれに答えたいと思います。

差別はなぜいけないのか。思うに、それは個人の尊厳が人間の普遍的な価値だからです。そして、個人の尊厳が人間の普遍的な価値であるのは、個人の尊厳が〈人間〉の条件だからです。つまり、個人の尊厳を否定することは、〈人間〉存在を否定することです。

もしかすると、「個人の尊厳が人間の普遍的な価値であるならば、差別したい個人の意思も尊重されるべきだ」と考える人がいるかもしれません。しかし、その考えは間違いです。なぜなら、差別は個人の尊厳を踏みにじるものであり、つまり差別と個人の尊厳は本質的に相容れないものだからです。

私が個人として尊重されるのであれば、あなたも個人として尊重されなれければなりません。たとえあなたが個人として尊重されることを望まなくても、それによって他者が個人として尊重されなくなることは決してありません。個人の尊厳が人間の普遍的な価値であるというのは、つまりそういうことです。

「差別は人間の本性だ」という言説がしばしば見聞されます。しかし、差別が人間の本性だというのは誤解です。なぜなら、差別は支配階級によって作られるものだからです。差別がいつまでもなくならないのは、差別が人間の本性だからではありません。支配階級が、社会の差別構造をいつまでも壊さずに保ち続けているからです。もし人間の本性であるならば、私たちは差別をなくすことについて絶望するしかありません。しかし、前述したように差別は人間の本性ではなく支配階級によって作られるもの、すなわち人が作ったものなのですから、私たちはこれを壊すことができるのです。しかるに、社会の差別構造をいつまでも壊さずに保ち続けるのであれば、やはり差別主義者との誹りを免れないでしょう。

「日韓関係」を非対称に歪めている構造的原因

韓国の与野党4党、GSOMIAの条件付き延長を肯定的に評価…正義党は「深く失望」 : 政治•社会 : hankyoreh japan

 

韓国政府が韓日軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の終了を条件付きで猶予することを決定したことについて、韓国国民の中には文在寅政権の対日姿勢を弱腰と非難する非難する人も少なくないかもしれません。韓国で行われた世論調査によれば、回答した韓国国民の過半数がGSOMIAの終了を支持したとのことです*1*2

たしかに、今般の「GSOMIA問題」のきっかけは日本政府の韓国に対する経済報復であることに鑑みれば、韓国政府が譲歩する必要はないでしょうし、韓国政府の決定は日本政府を付け上がらせる*3悪手だったと思います。しかし、「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」の下では、誰が韓国大統領であろうと同じ結果になっただろうと思います。つまり、「GSOMIA問題」で韓国政府の対日姿勢が弱腰だとすれば、それは文在寅大統領に原因があるのではなく、「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」に原因があるということです。

つまるところ「日韓関係」を非対称に歪めているのは、「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」です。そもそも、かつての朴正煕政権や全斗煥政権のような“親日”軍事政権が韓国に存在することが、安定した「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」を維持するための条件です。つまり、「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」は、韓国の民主主義とは相容れないものなのです。それは、今般の「GSOMIA問題」で韓国政府が世論調査で示された民意よりも、「米日韓三角軍事同盟」とそれを支える「日韓65年体制」を優先してしまったことからも明らかです。

「日韓関係」の非対称な歪みを正すには、、安倍政権のような日本の極右政権を倒すだけでは足りず(もっとも、それは「日韓関係」の非対称な歪みを正す上で必要不可欠なことではありますが。)、構造的原因である「日韓65年体制」とそれが支える「米日韓三角軍事同盟」を解体しなければなりません。そうして、「日韓65年体制」とそれが支える「米日韓三角軍事同盟」を解体したとき、韓国の人民は「帝国」の植民地支配から真に解放され、日本の人民は日本の真の民主化へ確かな一歩を踏み出すでしょう。