葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「旭日旗問題」は、日本人自身の問題だ。

いわゆる「旭日旗問題」に関して、たしかに韓国人だからといって皆が旭日旗を問題視するわけではなく、中には旭日旗を問題視しない人もいることでしょう。しかし、だからといって日本人が「旭日旗を問題視しない韓国人もいるのだから、旭日旗を使うことになんら問題はない」と言うのは、「旭日旗問題」の本質を履き違えています。

旭日旗が問題なのは、それが日本軍国主義の象徴だからです。そして、旭日旗が日本軍国主義の象徴であるのは、それがアジアを侵略した日本軍の軍旗(軍艦旗)だからです。つまり、旭日旗を日本軍国主義の象徴にしたのは、ほかならぬ日本なのであって、韓国人が問題視するかどうかは関係ありません。韓国人が問題視しようがしまいが、本当に日本(日本人)が軍国主義と決別したというのであれば、日本軍国主義の象徴である旭日旗を使うべきではないのです。しかるに、旭日旗を使い続けることは、日本(日本人)がいまだ軍国主義と決別できていないと言わざるを得ません。

旭日旗問題」は、日本(日本人)が軍国主義と決別したかどうかという、日本人自身の問題です。すなわち、日本人であるあなたが「旭日旗問題」で問われているのは、あなた自身が旭日旗に対してどのような態度をとるか、つまり旭日旗によって象徴される日本軍国主義に対してどのような態度をとるかということです。そして、もしあなたが旭日旗を許容するのであれば、軍国主義者とのそしりを免れないでしょう。

「○○ニダ」は朝鮮語ではなく、コリア蔑視を煽る日本のインターネットスラングである。

三重県議が朝鮮語使い不適切投稿 議長が異例の批判声明「差別は許されない」 | ハフポスト

 

三重県議会の議長が批判声明を発表した一方で、インターネット上では「朝鮮語を使うことの何が悪いのか」と小林貴虎氏を擁護する声も見られます。

たしかに、朝日新聞(ハフポスト)の記事にも「『ニダ』は朝鮮語で『ですます調』の言葉遣いの語尾に使われる」と書かれています。しかし、これはいささか不正確です。

朝鮮語の語尾に使われるのは'-ㅂ니다'であって、「ニダ」などという朝鮮語はありません。小林氏が使った「○○ニダ」というのは、朝鮮語ではなく、朝鮮や韓国に対する蔑視を煽る日本のインターネットスラングです。つまり、朝鮮語を使うことが悪いのではなく、朝鮮や韓国に対する蔑視を煽る日本のインターネットスラングを使うことが民族差別煽動であって許されないのです。

問題となった小林氏の「ヘイトニダー」は、コリア蔑視を煽るネットスラングを使ったものである点のみならず、ヘイトスピーチ被害者の抗議を愚弄し、無力化せんとする点でも批判されてしかるべきものです。そうであれば、それは「からかい半分で使われる」などという話で済ませてはならない、悪質な民族差別煽動であるといえるでしょう。それゆえ、小林氏の発言が「一部の国や民族、特定の国籍の外国人らを排斥する不当な差別的言動」であることを明確に指摘し、これを「決して許されるものではない」と批判した三重県議会議長の批判声明は至極妥当であり、私はこの声明に賛意を表したい思います。

旭日旗を「日本軍国主義の象徴」にしたのは、ほかでもない日本である。

韓国国会、東京五輪での旭日旗禁止を求める決議:朝日新聞デジタル

 

韓国国会が東京五輪での旭日旗禁止を求める決議をしたことを報じる、朝日新聞の記事。この記事を読んで、私はその論調に疑問を覚えずにいられませんでした。

どうして武田肇記者は、「決議は、旭日旗を『第2次世界大戦当時の日本の帝国、軍国主義の象徴』と位置づけ」たなどと、さも韓国が旭日旗を「第2次世界大戦当時の日本の帝国、軍国主義の象徴」と決めつけたかのような書き方をするのでしょうか。まさか、武田記者の認識は、「韓国が旭日旗を『第2次世界大戦当時の日本の帝国、軍国主義の象徴』と位置づけなければ、旭日旗は『日本の帝国、軍国主義の象徴』ではない」というものなのでしょうか。もしそうであれば、その認識は間違っていると言わざるを得ません。

旭日旗が「日本軍国主義の象徴」であるのは、韓国がそう位置づけるからではありません。アジアを侵略した日本軍の軍旗(軍艦旗)であるから、旭日旗は「日本軍国主義の象徴」なのです。つまり、旭日旗を「日本軍国主義の象徴」にしたのは、ほかでもない日本だということです。

私が疑問を覚えたのは、それだけではありません。「旭日旗は、海上自衛隊が外部指標の自衛隊旗として使用しており、実際に韓国政府が決議に沿って国際行事での排除に乗り出せば、新たな摩擦が生じる可能性がある」というのも、まるで韓国が日本に言いがかりをつけて旭日旗を排除せんとしているかのような書き方です。おそらく武田記者は、海上自衛隊自衛隊旗として旭日旗を使うことに何ら問題はないと認識しておられるのでしょう。たしかに、自衛隊旗として旭日旗が認められているのは事実でしょう。しかし、だからといって本当に海上自衛隊自衛隊旗として旭日旗を使うことに何の問題もないのでしょうか。

日本国は、憲法9条で「戦力の不保持」をうたっているのですから、自衛隊は旧日本軍とは違うものであるはずです。それなのに、どうして自衛隊は「日本軍国主義の象徴」である旭日旗を使うのでしょうか。日本が本当に軍国主義を克服したのであれば、「日本軍国主義の象徴」である旭日旗を使うことなどできないはずです。つまり、韓国に批判されようとされまいと、自衛隊は「日本軍国主義の象徴」である旭日旗を使うべきでないのであり、それにもかかわらず旭日旗を使い続ける自衛隊こそが、日本と韓国の間に摩擦を生じさせる元凶なのです。

先般、日韓マスコミ労組によって「平和や人権が踏みにじられた過去の過ちを繰り返さないよう、ナショナリズムを助長する報道には加担しない」などとする共同宣言が出されましたが*1旭日旗の問題の本質をはぐらかし日本の軍国主義を正当化せんとする武田記者の記事は、「ナショナリズムを助長する報道」であると言わざるを得ないでしょう。日韓マスコミ労組の共同宣言にもあるように「平和や人権が踏みにじられた過去の過ちを繰り返さない」ためにも、朝日新聞にはこれ以上韓国敵視を煽り排外主義的なナショナリズムを助長する報道には加担してほしくないと、私は朝日新聞の一読者として思います。

「あいちトリエンナーレへの補助金不交付」は、何が問題か。

脅迫→展示中止→補助金不交付「あしき前例」 不自由展 [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル

 

あいちトリエンナーレへの補助金全額不交付に関して、「公金に頼らなくても、民間の協賛金で賄えるはずだ」あるいは「公金に頼るのであれば、政府に干渉されるリスクを甘受するしかない」といった意見が散見されます。また、補助金の全額不交付に批判的な意見の中にも、「事業自体の有用性は認められる」あるいは「全ての作品が問題なのではない」といったことを理由に「全額不交付ではなく、減額にとどめるべきだ」といったものがあります。

たしかに、理屈としては芸術祭そのものは公金に頼らなくても開催できるでしょうし、公金に頼ることで政府に干渉されるリスクがあることも事実です。しかし、あいちトリエンナーレへの補助金全額不交付は、単なる「カネの問題」ではありません。これを単なる「カネの問題」だととらえるのは、問題の本質を見誤っています。

今般の問題の本質は、公金を使うことの是非ではなく、補助金不交付が、これを通じて政府が「政府にとって不都合な表現は排除されてしかるべきである」(そして、さらには「政府にとって不都合な価値観と、そのような価値観を持つ人間は排除されてしかるべきである」)というメッセージを発するものであるという点にあります。「全額不交付」というのも、「巻き添えを食いたくなければ、排除に協力せよ」ということなのでしょう。そうであれば、なんとも邪悪で卑劣なやり口です。

ここで注意すべきなのは、表現の自由の問題は、表現が不快か否かといった主観的な問題ではないということです。今回“標的”とされた平和の少女像や天皇コラージュは、たしかに右派にとっては「不快な表現」なのでしょう。しかし、平和の少女像や天皇コラージュが「不快な表現」であろうとなかろうと、そもそも問題ではありません。平和の少女像は戦時性暴力の根絶という個人の尊厳にかかわるものであり、天皇コラージュは天皇制への抗議という民主主義にかかわるものです。また、これらは日本が克服すべき帝国主義にかかわるものであります。そして、表現の自由が個人の尊厳(自己実現の価値)と民主主義(自己統治の価値)によって支えられている点に鑑みれば、平和の少女像や天皇コラージュを「政府にとって不都合な表現」だとして排除することは、まさしく表現の自由の息の根を止めるものだといえます。

表現の自由の息の根を止めるものだというのは、決して単に文化としての芸術活動の自由を奪うだけのものではありません。前述したように、今回“標的”とされた平和の少女像や天皇コラージュが個人の尊厳あるいは民主主義にかかわるものであることに鑑みれば、これらを排除することは、個人が尊重される民主主義社会を根底から破壊するものです。つまり、今般の問題は、決して芸術家だけの問題ではないということです。だからこそ、私は市民として、あいちトリエンナーレへの補助金全額不交付に断固として抗議します。

 

旭日旗は、排外主義者が使うから排外主義の象徴なのではない。

旭日旗を「排外主義者が排外デモで使うことによって排外主義の象徴にされてしまった」、あるいは「日本の侵略戦争を美化し、正当化する安倍政権や極右主義者が軍国主義の象徴にしてしまった」という人がいます。たしかに、排外主義者や極右主義者が旭日旗を好むというのはその通りです。しかし、だからといって排外主義者や極右主義者が旭日旗を排外主義あるいは軍国主義の象徴にしてしまったというのは正しくありません。

旭日旗軍国主義の象徴であるのは、それがアジアを侵略した日本軍の軍旗(軍艦旗)だからです。つまり、旭日旗軍国主義の象徴にしたのは安倍政権や極右主義者ではなく大日本帝国であり、安倍政権や極右主義者が日本の侵略戦争を美化・正当化する以前から旭日旗軍国主義の象徴であったということです。そして、旭日旗がアジアを侵略した日本軍国主義の象徴であるからこそ、外国人排斥を叫ぶ排外主義者が排外デモで旭日旗を好んで使うのです。

旭日旗を「排外主義者が排外デモで使うことによって排外主義の象徴にされてしまった」と言う人は、もしかすると自衛隊旭日旗自衛隊旗自衛艦旗)として使うことは何ら問題ではないと考えるかもしれません。しかし、私はその考えに賛同しません。おそらく、彼は「自衛隊は、旧日本軍とは違うのだから問題ない」と言うでしょう。けれど、本当に自衛隊が旧日本軍と違うのであれば、どうしてアジアを侵略した日本軍国主義の象徴である旭日旗を使うのでしょうか。自衛隊が日本軍国主義の象徴である旭日旗を使っているというのは、つまり日本は未だ軍国主義を克服していないということであると言わざるを得ません。

このように、旭日旗問題というのは、つまるところ日本が軍国主義を克服するか否かという、日本自身の問題です。しばしば右派は「韓国が批判しなれば旭日旗が問題となることはなかった」と言いますが、それは問題の本質を誤解しています。日本が「日本国は大日本帝国とは違う」と言う以上、韓国に批判されようとされまいと、旭日旗は問題となるのです。

民族差別は「構造」の問題であり、「構造」が生み出すマジョリティの問題である。

「私は在日3世」。彼女は手を震わせながら、渋谷で聴衆の前に立った。

https://www.buzzfeed.com/jp/kensukeseya/korean-action-1

 

「私たちはいま、生きるか死ぬかの瀬戸際にいると思っています。今の時代は、個人情報を簡単に渡せるので、突然いろんな人がやってきて、連れ出されて殺されるってことも想像しています」という在日コリアン3世の訴えを、「日本人を『潜在的な殺人者』扱いする、不快な発言だ」と言う人が少なからずいるようです。

たしかに、「日本人は『潜在的な殺人者』だ」と言われたら、不快に感じる日本人の属性を持つ人も少なくないかもしれません。しかし、前出の在日コリアン3世の訴えを「日本人を『潜在的な殺人者』扱いするものだ」などと言うのは、民族差別問題の本質を誤解しています。

民族差別問題は、「日本人」という属性に由来するものではなく(しばしば「日本社会の民族差別は、日本人の民族性に由来するものだ」などと言う人がいますが、それは間違いです。)、「日本社会」の「構造」的な問題です。つまり、差別によってマイノリティを殺すのは「日本社会」だということです。そして、「日本人」の属性を持つマジョリティが問われるのは、「日本社会」による殺人に加担するか否か、あるいは人を殺すような社会を自らの手で変えるか否かであり、前出の在日コリアン3世の訴えも、まさにそれをマジョリティに問うているのだと思います。

そもそも、マジョリティの属性を持つ人間も、決して生来的にマジョリティなのではありません。マジョリティをマジョリティたらしめるのは社会の「構造」であり、それがマイノリティを生み出し、抑圧し、いざとなれば殺してしまうのです。それゆえに、マジョリティは何もしなくてもマジョリティである以上「マイノリティ殺しの加担者」になりうるのであって、その点では(「日本人」ではなく)マジョリティが「潜在的な殺人者」だというのは、決して間違いではありません。しかし、マジョリティも一人ひとり「自由な人間」なのですから、「マイノリティ殺しの加担者」になることを拒否することができます。だからこそ、マジョリティは「マイノリティ殺しの加担者」になることを積極的に拒否し、さらにはマジョリティを「マイノリティ殺しの加担者」たらしめんとする「構造」をこわしていかなればならないのです。そして、そのためにもマジョリティは、なによりもまず(前出の在日コリアン3世の訴えのような)マジョリティがマジョリティであるがゆえに「マイノリティ殺しの加担者」になりうることの自覚を促すマイノリティの声を真摯に受け止めなければならないのです。それをせずに、マイノリティの声を「日本人を『潜在的な殺人者』扱いする、不快な発言だ」などと言ってその声を黙らせようとするのであれば、やはり「(潜在的な)マイノリティ殺しの加担者」であるとの謗りを免れないでしょう。

ところで、民族差別は社会の「構造」の問題なのですから、それはマイノリティが個人の努力でどうにかするような問題ではありません。それゆえ、「マイノリティが差別されるのは自己責任である」などというのは、全くもって馬鹿げた話です。また、「マイノリティは、差別をなくしたければマジョリティの共感を得られるように努力すべきである」などというのもお門違いです。前述のとおり、マジョリティは「マイノリティ殺しの加担者」になることを積極的に拒否し、さらにはマジョリティを「マイノリティ殺しの加担者」たらしめんとする「構造」をこわしていかなればならないのですから、差別を克服する努力を求められるのはマイノリティではなく、むしろマジョリティだということです。つまり、民族差別は、ほかならぬマジョリティの問題なのです。

 

「マイノリティは味方をつくる努力をしろ」と言う前に、まずはマイノリティを踏みつけているその足をどかせよ、マジョリティは。

日本社会の差別に声を上げるマイノリティに対して、「日本社会の差別をなくしたければ、マジョリティを敵ではなく味方にする努力をすべきだ」と言うマジョリティがいます。おそらく彼は、穏当な意見を言ったつもりなのでしょう。しかし、それは穏当であるどころか、むしろ傲慢であるといえます。

「日本社会の差別をなくしたければ、マジョリティを敵ではなく味方にする努力をすべきだ」と言うマジョリティは、大きな勘違いをしています。人権は、国から恩恵として与えられるものではなく、人間が人間であることから当然に有する権利であり、それはマイノリティの人権でも変わりありません。それゆえに、マジョリティの機嫌の良し悪しにかかわらず、マイノリティは差別されてはならないのです。つまり、日本社会の差別をなくすために努力しなければならないのは、ほかならぬマジョリティなのであり、マジョリティがマイノリティに努力を求めるのはお門違いもいいところです。それに、「マイノリティは、差別されたくなければマジョリティの機嫌を損ねるようなまねをするな」というのは、それこそ差別であり、何ら差別の解消にはなりません。

マジョリティの中には、他にも「差別をやめろ」という声を「敵と味方をつくり、日本社会を分断するものだ」と言う人がいます。彼もまた穏当な意見を言ったつもりなのでしょうが、しかし、それは差別というマイノリティの日本社会からの排除を正当化するための詭弁にほかなりません。

マジョリティは、もし「力」を持った他のマジョリティから踏みつけられたら、「私を踏みつけているその足をどかせ」と要求するでしょうし、彼にはそう要求する権利があります。もっとも、彼にそのような権利があるのは、彼がマジョリティだからではなく、一人の人間だからです。同様に、一人の人間であるマイノリティにも、もしマジョリティから踏みつけられたら、「私を踏みつけているその足をどかせ」と要求する権利が当然にあります。そして、マジョリティは他者に「私を踏みつけているその足をどかせ」と要求するのであれば、自分もマイノリティを踏みつけているその足をどかさなければならないのです。なぜなら、人権はマジョリティの「特権」ではないのですから。つまり、一人の人間として社会で他者から踏みつけられずに生きることに、マジョリティもマイノリティも関係ないのです。

先に述べたように、日本社会の差別をなくすために努力しなければならないのは、マイノリティではなく、ほかならぬマジョリティです。日本社会の差別をなくすために、マジョリティが何よりもまず行うべきなのは、マイノリティに対して「味方をつくる努力をしろ」などと言うことではなく、マイノリティを踏みつけているその足をどかすことです。