葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

語り継ぐべき「もうひとつの歴史」

先月、長野を旅した私は、長野市の南部に位置する松代を訪れました。

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松代は、「真田丸」でおなじみ真田十万石の城下町として栄えた、歴史のある町です。

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しかし、この町には真田十万石の城下町として栄えた歴史のほかに、「もうひとつの歴史」があります。それは、アジア・太平洋戦争末期の本土決戦に備えて大本営(戦時における天皇直属の最高統帥機関)を移転する計画で地下壕が建設され、そのために勤労動員された日本人のみならず、多くの朝鮮人労働者が動員され、とくに朝鮮人労働者が過酷な労働を強いられたという、「戦争加害の歴史」です。

私は、その歴史を学ぶために、「もうひとつ歴史館・松代」を訪問し見学しました。

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こちらの「もうひとつ歴史館・松代」では、松代大本営の概要について解説員の方による解説があります。松代大本営について恥ずかしながら不勉強であった私は、解説員の方の解説のおかげで多くの知見を得ることができました。解説員の方の解説の中で特に印象に残ったのは、賢所皇位の象徴として伝えられる三種の神器の鑑の複製を、天皇家の祖先神とされる天照大神御神体として祀る場所)の建設では、「朝鮮人が携わると穢れる」などという理由で“純粋な日本人”が動員された、という話です。この話は、天皇制というものが、いかに日本の「差別の根元」であるか、あるいは日本の「排除と同化の論理」を象徴するものであるか、を如実に物語っています。

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松代大本営の建設では、警察と憲兵隊の強い要請によって「慰安所」が設けられました。そこには、看護婦(ママ)の仕事だと騙されて連れてこられた当時17歳の朝鮮人少女がいたことが、日本人の証言によって明らかになっています。戦時の性奴隷制の問題は、決して「遠い世界の話」ではないのです。

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日本国内で、日本の戦争被害の歴史を記憶するための場は、決して少なくありません。しかし、それに比べて、日本の戦争加害の歴史を記憶するための場は、圧倒的に少ないといえます。「もうひとつ歴史館・松代」は、日本の戦争加害の歴史を学び、記憶することができる、数少ない貴重な場です。日本が過ちを再び繰り返さないために、なによりも大切なのは、私たちが日本の戦争加害の歴史を学び、記憶することです。そのためにも、ぜひ一人でも多くの日本国民に「もうひとつ歴史館・松代」を訪れてもらいたいと、私は思います。

 

japan.hani.co.kr

#好きです韓国 であればこそ

「日韓関係は私たちが守る」、ネットユーザーの間で広がる”好きです”ハッシュタグ│日韓関係│wowKora(ワウコリア)

 

「韓国が好きか」と問われれば、もちろん私は韓国が好きです。しかしながら、「#好きです韓国」や「#좋아요_한국」といったハッシュタグを付けてTwitterに投稿される「歴史問題で国同士の仲が悪くても、それは私たちに関係がないことです」という旨の日本人の声には、私は共感できません。

もちろん、私は「#好きです韓国」や「#좋아요_한국」といったハッシュタグに込められた純粋な思いを無下にするつもりはありません。しかし、今般の「日韓関係の悪化」は、本当に「私たちに関係がない、国同士のいざこざ」なのでしょうか。

今般の「日韓関係の悪化」は、日帝植民地支配下での強制労働被害者を司法的に救済する韓国大法院の判決(いわゆる徴用工判決)に対する、日本政府による「日韓65年体制」という新植民地主義的な非対称の関係を背景とした経済報復に端を発するものです。つまり、これは「国同士のいざこざ」という問題ではなく、日本政府の韓国市民社会に対する植民地主義的な“暴力”という問題です。韓国市民による日本製品不買運動も、「日本が嫌いだから」という主観的なものではなく、まさしく日本政府の韓国市民社会に対する植民地主義的な“暴力”と、この“暴力”の背景にある新植民地主義的体制を支え、その恩恵にあずかる日本企業と“ネオ親日派”に対する抵抗なのです。

このような今般の「日韓関係の悪化」をもたらした日本政府の韓国市民社会に対する植民地主義的な“暴力”は、私たち日本国民にとって決して無関係なものではありません。なぜなら、日本政府の韓国市民社会に対する植民地主義的な“暴力”を許してしまっているのは、ほかならぬ私たち日本国民の「歴史認識」なのですから。

「#好きです韓国」と言う日本人は、本当に韓国が好きなのであれば、否、むしろ本当に韓国が好きであればこそ、「歴史問題で国同士の仲が悪くても、それは私たちに関係がないことだ」などと言うのではなく、日帝の植民地支配という歴史と真摯に向き合い、自己のうちに内面化された植民地主義を克服し、そして韓国市民社会に対して植民地主義的な“暴力”を振るう安倍政権を終わらせるべきです。「#好きです韓国」と言う日本人は、くれぐれも「#好きです韓国」を、日本人が日帝の植民地支配という歴史を忘れるための“免罪符”にしてはなりません。

もっとも、「#好きです韓国」と言う日本人の中には、本稿に反発を覚える人も少なくないかもしれません。たしかに、日帝の植民地支配という歴史は、現在の日本人にとって過去の「与り知らないこと」かもしれません。しかし、誤解しないでください。日帝の植民地支配という歴史と向き合うことで、過去の「与り知らないこと」について現在の日本人が責任を問われるのではありません。現在の日本人が、日帝の植民地支配という史実について、今まさにどのような態度をとるか、それこそが問われるのです。

それでもなお、日帝の植民地支配という歴史と真摯に向き合い、自己のうちに内面化された植民地主義を克服することに反発を覚えるのであれば、残念ながらその人の「#好きです韓国」は、韓国という「友人」を対等に見ない、ただの支配欲でしかないでしょう。

平和の少女像を「不快だ」と言う日本国民へ

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名古屋、あいちトリエンナーレ「平和の少女像」展示中止 : 日本•国際 : hankyoreh japan

 

「表現の不自由展・その後」の展示中止に賛成する日本国民のみならず、反対する日本国民の中にも、平和の少女像を「不快だ」と言う人が少なくありません。彼らは、なぜ平和の少女像を「不快だ」と言うのでしょうか。

思うに、彼らは平和の少女像を「反日の象徴」だと捉えています。そもそも「反日」という概念それ自体がナンセンスですが、それはさておき、彼らのその認識は正しくありません。平和の少女像は、その名のとおり「平和の象徴」であり*1、さらに言えば、それは戦時性暴力の否定という普遍的価値を象徴するものです。そのような趣旨の平和の少女像が「反日の象徴」であるならば、戦時性暴力の肯定が日本社会の支配的な価値観だということになりますが、日本国民は本当にそれで良いのでしょうか。

おそらく、多くの日本国民は、平和の少女像を敵視する日本のマスメディアの報道を通じて平和の少女の存在を認知するだけで、平和の少女の「声」に耳を傾けたことがないでしょう。「表現の不自由展・その後」は、日本国民が平和の少女の「声」に耳を傾けることができる貴重な機会でした。しかし、その機会は、平和の少女の「声」を封殺せんとする卑劣な暴力によって奪われてしまいました。

平和の少女像が戦時性暴力の否定という普遍的価値を象徴するものであることに鑑みれば、平和の少女が日本国民に問うているのは、まさに「日本国民が戦時性暴力の否定という普遍的価値を共有するか否か」です。そうであれば、平和の少女像を不快に感じることなどないはずです。しかるに、平和の少女像をなおも「不快だ」と言う日本国民は、つまるところ戦時性暴力の否定という普遍的価値を共有したくないということなのでしょう。なお、この点に関しては、「表現の不自由展・その後」に対する弾圧を批判する“リベラル”派の中にも、批判するに際して「少女像の賛否はさておき」ということを付け加えずにいられない人が少なくありません。そのような“リベラル”派は、戦時性暴力を肯定するのでしょうか。あるいは、戦時性暴力に対して「どっちつかず」の態度をとるのが“リベラル”なのでしょうか。もしそうであるならば、もはや“リベラル”は私にとって唾棄すべきものでしかありません。

もっとも、平和の少女像をなおも「不快だ」と言う日本国民は、「私は戦時性暴力を肯定しないが、しかし、従軍慰安婦問題がすでに解決しているにも関わらず、なおも日本を非難し続けるから不快なのだ」と言うかもしれません。たしかに、安倍首相も日本軍性奴隷制問題に関しては「お詫びと反省」を表明しています*2。しかし、日本の政府や議員あるいは保守論客が、日本軍性奴隷制問題を矮小化ないし正当化するといった「お詫びと反省」と矛盾する態度をとるからこそ、日本軍性奴隷制問題はいつまでも解決せず、それゆえに平和の少女は「声」を上げ続けなければならないのです。そして、今般のように卑劣な暴力によって平和の少女の「声」が封殺されたことが、日本軍性奴隷問題が何一つ解決していないことのなによりの証左です。

今般の「表現の不自由展・その後」に対する弾圧の「中心人物」ともいえる河村たかし名古屋市長は、平和の少女像を「どう考えても日本国民の心を踏みにじるものだ」と言います*3。「日本国民の心を踏みにじるもの」ですって?それは違いますよ。日本軍性奴隷制被害者の尊厳を踏みにじってきた日本国民の虚栄心が、平和の少女像によって打ち砕かれるのでしょうよ。それとも、戦時性暴力を肯定するのが「日本国民の心」なのでしょうか。

さて、今般の「表現の不自由展・その後」に対する弾圧については、決して看過してならないことが一つあります。それは、平和の少女像のみならず、いわゆる「天皇コラージュ」*4も不当な圧力と卑劣な暴力の標的にされたということです。日本の戦時性暴力は、ほかならぬ「天皇の軍隊」によるものですが、「天皇の絶対性」を侵犯する芸術作品が不当な圧力と卑劣な暴力の標的にされたということは、天皇の軍隊による戦時性暴力の根底にある「天皇の絶対性」を、日本社会が未だ克服していないことを如実に表しています。つまり、今般の「表現の不自由展・その後」に対する弾圧は、単に「表現の自由」や「アベ政治」の問題にとどまるものではなく、いまだ克服されないできた日本の帝国主義と、それによって日本国民の自己のうちに内面化された植民地主義が、根本的に問われているのです。

以上、本稿をもって「表現の不自由展・その後」を中止に追いやった不当な圧力と卑劣な暴力に断固抗議します。

「対韓輸出規制」は、徹頭徹尾「日本政府の植民地主義的な暴力」の問題である。

www.asahi.com

 

いわゆる「対韓輸出規制」を、「日韓の政治的対立」の問題であると理解する日本国民が少なくありません。日本のマスメディアによる報道に接していると、そう理解してしまうのも無理はないのかもしれません。しかし、その理解は「木を見て森を見ず」であり、本質を見誤ったものです。

たしかに、日本政府は「対韓輸出規制」を「(韓国大法院が下した)徴用工判決への経済報復ではなく、安全保障上の措置だ」と主張しています。しかし、「安全保障上の措置」であることについて日本政府の説明は一貫性がなく*1、その根拠も希薄であることに鑑みれば*2、日本政府の主張が取るに足らない言い訳にすぎず、徴用工判決への経済報復であることは明白です。それに、「旧朝鮮半島出身労働者問題については、残念ながら、G20までに満足する解決策が全く示されなかった、関係省庁でいろいろと相談をした結果、韓国との間では、信頼関係が著しく損なわれたと言わざるを得ない状況になっている」と日帝強占期強制動員問題(徴用工問題)を絡めて語っているのは、ほかならぬ世耕経産相です*3。そもそも、日本が「政府が『徴用工判決への経済報復ではない』と言うのだから、『徴用工判決への経済報復ではない』のだ」というのがまかり通るような国家であるならば、もはや日本は「民主主義国家」ではないでしょう。

思うに、「対韓輸出規制」問題の構図は、日帝植民地支配下での強制動員という植民地主義的な暴力による人権侵害への抗議を、「日韓65年体制」という新植民地主義的な非対称性の下で経済報復という植民地主義的な暴力を用いて抑圧する日本政府と、それに対する韓国市民社会の抵抗です。それゆえに、韓国の市民は「国同士のいざこざだから」などと他人事にせず、日本政府の植民地主義的な暴力に抗議するのです。

日本のリベラル派の中には、韓国の市民による日本政府の植民地主義的な暴力への抗議を「反安倍政権」としか捉えていない人も少なくないかもしれません。たしかに、日本政府の植民地主義的な暴力に抗議する韓国の市民が掲げているのは「NO 일본(日本)」ではなく「NO 아베(安倍)」です。しかし、先述のとおり「対韓輸出規制」が徴用工判決への経済報復であり、徹頭徹尾「日本政府の植民地主義的な暴力」の問題であることを考えれば、「反安倍政権」にとどまるものではなく、私たち日本国民の自己のうちに内面化された植民地主義が、まさに問われているのです。そうであれば、私たち日本の市民は、日本国民として自己のうちに内面化された植民地主義と向き合い、これを克服しないまま、軽々しく「韓国市民との連帯」を口にしてはならないでしょう。

繰り返しになりますが、「対韓輸出規制」は「日韓の政治的対立」の問題ではなく、徹頭徹尾「日本政府の植民地主義的な暴力」の問題です。したがって、それは私たち日本の市民にとって「無関係な話」ではなく、私たち日本の市民は、日本政府の植民地主義的な暴力に加担して「共犯者」となるか、それとも自己のうちに内面化された植民地主義を克服して「抵抗者」となるか、その選択を韓国の市民に問われているのです。

 

「日韓関係悪化」の根本原因は、「ナショナリズムの衝突」などではない。

昨今の「日韓関係の悪化」について、日本国民の中には「日韓の政治対立は、ヘイトスピーチを繰り返して日本人の『嫌韓』感情を煽る日本のネット右翼と、歴史問題を繰り返し持ち出して韓国人の『反日』感情を煽る韓国の市民という、日韓双方の『偏狭なナショナリスト』を利することになる」と言う人がいます。つまり、彼は「日韓関係の悪化」の根本原因を日韓双方の「ナショナリズムの対立」だと捉えているわけです。

日本の「ネット右翼」によるヘイトスピーチが排外主義的なナショナリズムの発現であるというのは、たしかにそのとおりでしょう。しかし、だからといって、「日韓関係の悪化」の根本原因を日韓双方の「ナショナリズムの対立」だと捉えるのは、正しくありません。なぜなら、歴史問題に関する韓国市民の日本に対する抗議は、日帝植民地支配下での人権侵害に対する抗議であって、日本の「ネット右翼」によるヘイトスピーチとは違い、排外主義的なナショナリズムの発現などではないからです。

歴史問題に関する韓国市民の日本に対する抗議を「反日ナショナリズムの発現」だと言う日本国民は、韓国市民が日本軍性奴隷制日帝強占期強制動員の被害者を「反日」のために利用していると、しばしば主張します。彼は、日本軍性奴隷制日帝強占期強制動員といった日本の加害そのものは認めているのですから、その点では"リベラル"なのでしょう。しかし、はたして彼は、一度でも被害者の「声」に真摯に耳を傾けたことがあるでしょうか。もし一度でも被害者の「声」に真摯に耳を傾けたことがあれば、韓国市民が日本軍性奴隷制日帝強占期強制動員の被害者を「反日」のために利用していると主張することなどできないはずです。

それ以前に、そもそも「日韓関係の悪化」の根本原因を日韓双方の「ナショナリズムの対立」だと捉えていることが、彼の「歴史に対する不誠実さ」を如実に表しています。ご存じのように、昨今の「日韓関係の悪化」の端緒は、日本軍性奴隷制問題(日本軍「慰安婦」問題)や日帝強占期強制動員問題(徴用工問題)ですが、先にも述べたように、これらは本来、日帝植民地支配下での人権侵害の問題であって、国家間の政治的な対立の問題ではありません。*1しかるに、日帝植民地支配下での人権侵害の問題を国家間の政治的な対立の問題にすり替えるのは、つまるところ、日帝植民地支配下での人権侵害という日本の加害の歴史を忘却するためなのでしょう。

もっとも、日本軍性奴隷制問題や日帝強占期強制動員問題を「日韓の政治的な対立の問題」だと捉える日本国民は、「日韓の過去の不幸な歴史は否定しないが、しかし、従軍慰安婦問題も徴用工問題も日本はお詫びと反省をしているのに韓国が蒸し返すから、日韓関係が悪化するのだ」と言うでしょう。たしかに、安倍首相も日本軍性奴隷制問題に関しては「お詫びと反省」を表明しています*2。しかし、だからといって「韓国が蒸し返す」というのは、正しくありません。安倍氏の「お詫びと反省」にもかかわらず、いつまでも問題が解決しないのは、「韓国が蒸し返す」からではなく、日本の政府や議員あるいは「保守論客」が、日帝の植民地支配を美化あるいは正当化するといった「お詫びと反省」と矛盾する態度をとるからです。つまり、「日韓関係の悪化」の根本原因は、いつまでも日本の加害の歴史と真摯に向き合わない日本にあるのです。

日本国民が、「日韓関係の悪化」を真剣に憂い、真の友好関係を築くことを望むのであれば、何よりもまず日帝の植民地支配という日本の加害の歴史と真摯に向き合い、自己のうちに内面化された植民地主義を克服し、そして政府や右派による日帝の植民地支配の正当化を徹底的に批判することが必要です。しかるに、それをせず、歴史問題に関する韓国市民の日本に対する抗議を「反日ナショナリズムの発現」だと誹謗して告発を無力化せんとする日本国民は、つまるところ「日韓友好」に託けて日本の加害の歴史を都合よく忘れたいだけなのでしょう。残念ながら、そう思わざるを得ません。

「日韓関係の悪化」を「どっちもどっち」論で語る日本国民の誤解

昨今の「日韓関係の悪化」を、「どっちもどっち」論で語る日本国民が少なくありません。「日本でも、韓国でも、政治家がお互いの対立を煽っている」あるいは「日本の『嫌韓』も悪いが、韓国の『反日』も悪い」と言う彼らは、問題の本質を「日韓の政治的対立」であると捉えているのでしょう。

たしかに、「日韓関係の悪化」を「日韓の政治的対立」という論調で報じる日本のマスメディアの報道*1ばかりに接していると、問題の本質を「日韓の政治的対立」であると捉えてしまうのも無理はないのかもしれません。しかし、それは問題の本質を誤解しています。

ご存知のように、昨今の「日韓関係の悪化」の根底には、日本軍性奴隷制問題(日本軍「慰安婦」問題)や日帝強占下強制動員問題(徴用工問題)があります。これらの問題は、日本の植民地支配下での人権侵害という問題であって、それは本来、日本が「加害者」として誠意をもって主体的に取り組まなければならない問題です。つまり、日本軍性奴隷制問題や日帝強制動員問題は、「日韓の政治的対立」の問題などではないのです。

韓国における日本製品不買運動*2も、日帝強占下強制動員被害者の司法的救済に対する日本政府の帝国主義的な経済報復がなければ、そもそも起こらなかったものです。しかるに、日本国民がそれを都合よく忘れて韓国における日本製品不買運動を非難し、あるいは冷笑するというのは、傲慢であると言わざるを得ません。また、前述したように、日本軍性奴隷制問題や日帝強占下強制動員問題は、日本が「加害者」として誠意をもって主体的に取り組まなければならない問題です。したがって、日本が問題に誠意をもって主体的に取り組まなければならないのであれば、被害者と被害者を正当に代表する韓国政府が抗議するのは当然のことです。しかるに、その当然の抗議を「反日」だなどとあげつらうのは、韓国を侮蔑する植民地主義的な態度だと言わざるを得ません。もし本当に日本国民が植民地主義を克服したのならば、「反日」などという傲慢な言葉は恥ずかしくて使えないはずなのですが。残念ながら、日本社会の植民地主義は、相当根深いようです。

昨今の「日韓関係の悪化」は、つまるところ日本の植民地支配下での人権侵害の正当化に腐心する日本政府が招いたものです。その点を看過して「どっちもどっち」論で語る日本人は、やはり「歴史から目を背けたい」、あるいは「歴史を忘れたい」と思っているのでしょう。(日本の植民地支配下での人権侵害の正当化に腐心する日本政府の態度のみならず、)そのような日本国民の態度も、歴史問題の解決を困難ならしめ、そして韓国と日本の友好を揺るぎないものにすることを妨げているのです。しかるに、日本国民が「日本でも、韓国でも、政治家がお互いの対立を煽っているが、一般の国民には迷惑な話だ」などと、まるで他人事のように語るのは、いささか無責任です。日本国民が、「日韓関係の悪化」を本心から憂慮するのであれば、日本の植民地支配下での人権侵害という「負の歴史」としっかり向き合い、そして「負の歴史」の正当化に腐心する政府の態度を改めさせることが何よりも必要です。

さて、もしかすると本稿をお読みくださった読者の方からは、本稿は「韓国に肩入れするものだ」という批判をいただくかもしれません。もちろん、本稿に対する批判は大いに結構です。しかし、誤解しないでください。「どっちもどっち」論は、決して「中立公正」ではありません。そして、日本軍性奴隷制問題や日帝強占下強制動員問題といった日本の植民地支配下での人権侵害の問題は、ほかならぬ日本自身の問題だからこそ、日本国民である私は、日本の植民地支配下での人権侵害を正当化せんとする日本政府と、日本の植民地支配下での人権侵害という「負の歴史」と向き合わずにこれを忘却せんとする日本国民を批判するのです。どうか、「中立公正」と「どっちもどっち」を履き違えないでください。

「『嫌韓』は『韓流』に対する反発である」という浅薄な認識

「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」と言う人たちがいます。もしかすると、彼らは「フジテレビ抗議デモ」や「花王不買運動」から「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」という認識を有するに至ったのかもしれません。しかし、それは浅薄な認識です。

まず、そもそも「嫌韓」などという言葉を用いることが間違っています。民族差別や排外主義は、「好き嫌い」の問題ではありません。つまり、「好き嫌い」は個人の自由の問題ですが、民族差別や排外主義は、個人の自由として許される問題ではないのです。

誤解している人が少なくないようですが、日本社会の韓国(朝鮮)蔑視は昨日今日に始まったことではなく、近代以降の日本社会に深く根を下ろしてきた、いわば近代日本の「支配的価値観」です。そして、日本人が「韓流」に反発心を抱くのだとすれば、それは「『韓流』とか調子に乗るな」と韓国を見下しているからです。つまり、「『韓流への反発』」などというのは表層的な現象にすぎず、その根底には日本社会の韓国蔑視観があるということです。

「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」という言説は、主に「ネット右翼」が民族差別や排外主義を正当化する言い訳として用いられるものでしょうが、ただ、「リベラル派」にも日本人、とりわけ日本人男性の「ルサンチマン」を批判する趣旨でこの言説を用いる人がしばしば見受けられます。もちろん、私もその趣旨はわからなくもありません。しかし、「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」という言説が表面的なものにすぎず、日本社会の韓国蔑視観という問題の本質を看過するものである点に鑑みれば、これを用いることは妥当ではありません。それのみならず、「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」という言説自体が、「韓国は『韓流』とかいって調子に乗っているのだから、反発されて嫌われてもしかたがないだろう」という韓国蔑視観に基づくものです。しかるに、「リベラル派」の彼が「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」という言説に違和感を覚えないのだとすれば、残念ながら彼も、日本社会の韓国蔑視観と無縁ではないということです。