葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

韓国国会議長に問われた「戦後民主主義」の欺瞞

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日本軍性奴隷問題について天皇の謝罪を求める文喜相韓国国会議長の発言は、戦後天皇制が戦前天皇制と非連続的なものではないことに鑑みれば(戦後天皇制を戦前天皇制は全く異なるものと考えている人も少なくないでしょうが、戦後天皇制は戦前天皇制から主権を差し引いたものにすぎず、すなわち「象徴天皇制」は戦前天皇制を象徴機能に純化したものであって、戦前天皇制と全く異なるものではありません。なお、戦前天皇制の象徴性と戦後天皇制の象徴性とは本質的に異なると解するのが憲法学の通説ですが、しかし、両者に共通する権威主義的な国民統合という点に鑑みれば、はたして戦前天皇制の象徴性と戦後天皇制の象徴性とは本質的に異なるといえるかどうかは甚だ疑問です。)、至極当然のことを言ったまでであって、「極めて不適切なもの」*1などではありません。むしろ、日本軍性奴隷制という日帝による加害の歴史を正当化することに腐心する日本政府の態度こそ、極めて不適切だといえます。

しかしながら、日本軍性奴隷問題について天皇明仁氏に謝罪させることには、たとえ明仁氏の退位後であっても、私は賛同できません。誤解がないようにお断りしておきますが、私は決して、天皇裕仁氏の息子である明仁氏には日帝による植民地犯罪について責任がないと考えているわけではありません。明仁氏は天皇の地位を裕仁氏から承継したからこそ天皇であるのですから、裕仁氏が果たさなかった責任を明仁氏が承継しない理由はないはずです。私が明仁氏に謝罪させることに賛同できないのは、日本国憲法においては主権在民が建前であるがゆえに、天皇上皇)に国家を代表して日帝による植民地犯罪について謝罪させることは違憲であり、また、たとえ退位後であっても明仁氏の謝罪が「天皇」という存在の権威をさらに高め、天皇制のさらなる強化につながるおそれがあるからです。思うに、主権在民の建前の下では、内閣総理大臣が国家を代表して日帝による植民地犯罪について謝罪すべきです。

もっとも、そうはいっても天皇日帝による植民地犯罪について責任を負っているにもかかわらず、日本国憲法における主権在民の建前ゆえに謝罪させられないというのは、やはり理不尽だといえるでしょう。つまるところ、ここに「戦後民主主義」あるいは「象徴天皇制」の欺瞞があります。文喜相議長の発言によって問われているのは、まさにこの「戦後民主主義」あるいは「象徴天皇制」の欺瞞ではないでしょうか。そして、この問いに答えることなく、単に主権在民の建前を持ち出して文喜相議長の発言を批判するのは、それもまた欺瞞かつ傲慢な態度だといえます。

日帝による植民地犯罪について責任を負っている天皇に謝罪させることが、日本国憲法における主権在民の建前に反するという、「戦後民主主義」あるいは「象徴天皇制」が抱える矛盾。この矛盾を解消するには、やはり天皇制を廃止するしかありません。そもそも、日帝による侵略戦争と植民地支配の原動力となったのが、ほかでもない天皇制です。その天皇制を日本国民が自らの手で廃止することもせずに、はたして本当に日本国民は日本帝国主義と決別したといえるのでしょうか。本当に日本国民が日本帝国主義と決別したというのであれば、日本国民は天皇制を自らの手で廃止すべきです。そして、それは日帝による植民地犯罪について日本国民が果たすべき責任のひとつです。

日帝による植民地犯罪について日本国民が果たすべき責任に関して、「国民主権のもとでは、天皇裕仁氏の責任を承継するのは、明仁氏ではなく主権者である国民だ」と言う“民主主義者”もいることでしょう。しかし、それは「国民主権」を巧みに利用した(“民主主義者”の皮をかぶった)天皇主義者の詭弁です。日帝による植民地犯罪について日本国民が果たすべき責任は、決して天皇裕仁氏から承継するものではなく(前述のとおり、裕仁氏の責任を承継するのは明仁氏です。)、国民固有の責任です。

繰り返しになりますが、私が天皇明仁氏に謝罪させることに賛同できないのは、日本国憲法においては主権在民が建前であるがゆえに、天皇に国家を代表して日帝による植民地犯罪について謝罪させることは違憲であり、また、たとえ退位後であっても明仁氏の謝罪が「天皇」という存在の権威をさらに高め、天皇制のさらなる強化につながるおそれがあるからです。もっとも、このことは、日帝による植民地犯罪の被害者、あるいは韓国の政府や国民にとっては全く関係のない話です。つまり、天皇制の問題は、日本国民が本当に日本帝国主義と決別したといえるかどうか、あるいは身分差別を是とするかどうかという(よく語られる「明仁氏の人柄」など、はっきり言ってどうでもいいことです。)、日本国民自身の問題なのです。

マイノリティの人権は、マジョリティからの“ご褒美”ではない。

マイノリティの権利(もっとも、それは単なる権利ではなく人権ですので、以下ではマイノリティの権利=人権であるとして話を進めます。)について、マジョリティはしばしば「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」と言います。おそらく、この言説に共感するマジョリティは少なくないでしょう。しかし、私は、私自身がマジョリティではあるものの、この欺瞞に満ちた言説には共感できません。

いったい、いつになったらマジョリティはマイノリティに共感するというのでしょうか。おそらく、「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」などと言うマジョリティは、マイノリティがどれだけ誠実に訴えたとしても、あれやこれやと難癖をつけて、いつまでも共感しないでしょう。なぜなら、彼は自分の持っている権利をマイノリティが持っていないことで、自分が「(マイノリティが持っていない)権利を持つ価値のある、特別な人間」であることを確認することができるのですから。しかし、彼は本当に「権利を持つ価値のある、特別な人間」なのでしょうか。彼の持っている権利は、本当に彼のようなマジョリティしか持つことができないものなのでしょうか。

そもそも「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」などと言うマジョリティは、勘違いしています。マイノリティの人権は、マジョリティから“ご褒美”として与えられるものではありません。人権は、誰かから与えられるようなものではなく、人間が人間であることにより当然に有する権利です。しかるに、どうして人間として当然の権利を主張するのに、マイノリティはマジョリティのご機嫌をうかがわなくてはならないのでしょうか。マイノリティの人権は、マジョリティのご機嫌次第で認められるようなものではありません。マイノリティの人権がマジョリティのご機嫌次第で認められるものだとするのは、「マイノリティを煮て食おうと焼いて食おうとマジョリティの勝手」だと言うようなものです。「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」という言説に共感するマジョリティは、その醜悪さにいい加減気づくべきです。

「意識」を変えるべきなのは、マイノリティではなく、ほかならぬマジョリティです。つまり、マジョリティである私やあなたは、マイノリティに対して「マイノリティは権利を認められたければ、多数の共感を得るべきだ」などと求める(それは、マジョリティの傲慢以外の何ものでもありません。)のではなく、私たちが「しなければならないこと」をするべきです。ただ、それはマイノリティの主張に共感することではありません(もちろん、マイノリティの主張に共感してはならないなどと言うつもりはありません。ですが、そもそもマイノリティの人権は、私たちの共感などとは関係なく存在するのです。)。マジョリティである私たちが、なによりもしなければならないのは、マイノリティを踏みつけているこの足を退け、マイノリティを踏みつけているあの足を退けさせることです。もっとも、それは、決してマイノリティのためにするのではありません。それは、私やあなたの「個人の尊厳」のためにするのです。マイノリティの「個人の尊厳」が確保されない社会は、およそ「個人の尊厳」が確保されるものではないのですから。

日本軍性奴隷問題は「国家間の問題」ではない。

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どうやら、日本軍性奴隷問題を日本と韓国の「国家間の問題」と捉えている人が少なくないようです。

もっとも、日本のマスメディアの報道に接していれば、そのように捉えてしまうのも無理はないのかもしれません。しかし、「国家間の問題」と捉えるのは、日本軍性奴隷問題の本質を見誤っています。

日本軍性奴隷問題は、日本と韓国の「国家間の問題」ではなく、「〈国家〉対〈被害者(と被害者を支える市民)〉」の問題です。だからこそ、被害者を支える日本の市民は未だ国家責任を認めず真摯に謝罪しない日本政府を批判し、被害者を支える韓国の市民は被害者を蔑ろにして日本政府と不当な合意を結んだ朴槿恵政権を批判するのです。

いわゆる「慰安婦問題日韓合意」についても、韓国政府はあくまでも被害者の「代理人」です。したがって、日本軍性奴隷問題において韓国政府がいちばんに考えなければならないのは、「国益」などではなく「被害者の尊厳回復」です。しかるに、朴槿恵政権は、「米日韓三角軍事同盟の維持・発展を目的とする『日韓65年体制』の維持」という「国益」のために、被害者を蔑ろにして日本政府と不当な合意を結びました。それゆえ、朴槿恵政権は被害者を支える韓国の市民に批判されたのです。

このように、日本軍性奴隷問題は、日本と韓国の「国家間の問題」ではありませんが、ただ、ひとつ忘れてはならないことがあります。それは、日本と韓国の「国家間の問題」ではないからといって、日本国民が「日本国民としての責任」を免れるわけではないということです。たしかに、「国家=国民」ではありません。しかし、日本という国家において「国民」が主権者であるならば、「国民」には主権者として、日本という国家が負う日帝の加害責任について「日本国民としての責任」を負っているはずだからです。もっとも、「日本国民としての責任」というのは、国家責任を認めず真摯に謝罪しない日本政府に代わって日本国民が被害者に謝罪して賠償することではありません。「日本国民としての責任」というのは、日本軍性奴隷問題という日本による加害の歴史と向き合い、日本政府に国家責任を認めさせて真摯に謝罪させることです。

日本軍性奴隷問題が「〈国家〉対〈被害者(と被害者を支える市民)〉」の問題だということは、すなわち、それは「被害者の尊厳回復」という人権の問題だということです。そうであれば、「慰安婦問題で、日韓関係が冷え込んでいる」などというのが、いかに的外れであるかがよくわかるでしょう。「被害者の尊厳回復」という人権の問題で、「日韓関係が冷え込む」などというのは、本来であればおかしなことです。なぜなら、日韓両国がどちらも真剣に「日本軍性奴隷制被害者の尊厳回復」を志向しているのであれば、「日韓関係」が冷え込むはずがないのですから。それなのに「日韓関係が冷え込む」というのは、つまるところ日本政府が日本軍性奴隷問題の正当化に腐心し、国家責任を認めず真摯に謝罪しないからです。

国家責任を認めて真摯に謝罪することを日本政府に求めるのは「反日」的態度だと言う日本国民が少なくありませんが、そのようなことを臆面もなく言う日本国民は、いい加減気づくべきです。愛する「日本」のことを、「反人権国家」だと貶めていることに(もっとも、日本の国家としての威厳や名誉など、日本軍性奴隷制被害者の尊厳や名誉に比べれば、まったくもって取るに足らないものですが。)。

日本の市民であるあなたは、どうか誤解しないでください。日本軍性奴隷制被害者と、被害者を支える韓国の市民は、あなたに敵対する相手ではありません。あなたが対峙するべき相手は、個人の尊厳を権力で踏みにじり、その非を認めようとしない国家です。そして、あなたがそのような国家と対峙するとき、日本軍性奴隷制被害者と、被害者を支える韓国の市民は、あなたの力強い味方であるはずです。

 

株式会社FMGによる韓国人スタッフに対する人権侵害に、断固抗議する。

チェジュ航空の日本協力企業「慰安婦後援ブランドのカバン持つな」

| Joongang Ilbo | 中央日報

https://japanese.joins.com/article/641/249641.html

 

この事件、卑劣な、あまりにも卑劣な、人間の尊厳に対する蹂躙です。

韓国・中央日報に記事によれば、空港地上支援業務を請け負っている日本企業である株式会社FMGが、同社で勤務する韓国人スタッフAさんにした「マリーモンド*1のカバンを持つな」との指示は、(Aさんの話によると)「入社1年内に退社するとひと月分の月給より多い違約金を支払うことになっている雇用契約のため、異議を提起でき」ず、「入社前、会社側が外国人労働者ビザを受け入れたので違約金条項を甘受するよう強要し……仕事場を見つけなければならなかったため、使用側が提示した勤労契約書に同意するほかはない状況だった」という、入社して間もない外国人労働者の弱い立場につけこむという(そもそも、労働契約に違約金を規定することは、労働基準法第16条に抵触し違法です。)、卑劣極まりないものだといえます。そして、たしかにマリーモンドは日本軍性奴隷被害者を支援していますが(そもそも、日本軍性奴隷被害者を支援することの何が悪いというのでしょうか?)、マリーモンドのカバンそのものは「政治スローガンが書かれていたものでもな」く(そもそも、日本軍性奴隷問題は「政治」や「イデオロギー」の問題ではありませんが)、また、マリーモンドのカバンを持つことが空港地上支援業務を支障をきたすなどということは、常識的に考えてありえないのですから、「マリーモンドのカバンを持つな」との指示は、明らかに合理的根拠を欠く不当な「良心の自由」の侵害であるといわざるをえません。

このように、株式会社FMGが、同社で勤務する韓国人スタッフAさんにした「マリーモンドのカバンを持つな」との指示は、Aさんの「良心の自由」を不当に侵害するものであって、たとえ私企業といえども到底許されない人権侵害ですが、問題はそれだけではありません。それというのも、マリーモンドが日本軍性奴隷被害者を支援していることを理由に「マリーモンドのカバンを持つな」というのは、日本軍性奴隷被害者の方の尊厳を踏みにじるものでもあり、また、日本国民の他民族憎悪を助長するものであるからです。つまり、二重三重の意味で人間の尊厳に対する蹂躙であるといえます。

この事件の発端は、共同通信の報道によれば*2「社外の人からの指摘があった」とのことです。そうだとすれば、この事件は、日本軍性奴隷問題の正当化に腐心する日本政府や右翼による、日本軍性奴隷被害者とその支援者に対する敵視扇動が惹き起こしたものであるといえるでしょうし、そもそも、日本軍性奴隷被害者とその支援者を敵視し、人間の尊厳を軽んずる「価値観」が、日本社会であまねく共有されているからこそ惹き起こされたともいえるでしょう。つまり、この事件は単に一企業の問題ではなく、日本社会そのものの問題であり、そうであればこそ、私たち日本の市民は、私たちの社会の問題を勇気をもって告発してくださった韓国のAさんを、絶対に孤立させてはなりません。

以上、本稿をもって株式会社FMGによる韓国人スタッフに対する人権侵害に、断固抗議します。

 

「徴用工」は、日帝による植民地支配の問題である。

「徴用工問題」について、「単なる悪徳企業とそれに搾取された労働者の問題なのに、どうして日本政府がこれに介入するのか」といった声がよく聞かれます。たしかに、先般の徴用工訴訟は国家間の紛争ではなく、日本企業とその被害者の間の紛争という民事紛争であり、日本政府がこれに介入するのはおかしな話です。しかし、だからといって「単なる悪徳企業とそれに搾取された労働者の問題」と捉えてしまうと、問題の本質を見失いかねません。

「徴用工問題」問題の本質は、「日帝による植民地支配体制下における、日本企業による被植民者の搾取」だという点にあります。つまり、形としては日本企業とその被害者の間の紛争という民事紛争であっても、それは日帝による植民地支配と「切っても切れない関係」にあるということです。実は、日本政府が日本企業とその被害者の間の紛争という民事紛争に執拗に介入せんとするのも、それが日帝による植民地支配と「切っても切れない関係」にあるからなのです。

日本製鉄(現在の新日鉄住金)や三菱重工業は、単なる日本企業として朝鮮人労働者を搾取したのではありません。日帝による植民地支配体制に組み込まれた日本企業として朝鮮人労働者を搾取したのです。つまり、これらの日本企業は、日帝による植民地支配体制下であるからこそ、被植民者である朝鮮人を強制労働によって搾取することができたのです。

日帝による植民地支配体制下ゆえにできた強制労働が不法であるということは、すなわち日帝による植民地支配が不法であることを意味します。これこそ、日本政府が民事紛争である徴用工訴訟に執拗に介入せんとする「理由」です。それというのも、日帝による植民地支配が不法であることを前提とする韓国大法院判決を受容することは、日帝による植民地支配が不法であることを認めることになるからです。日帝による植民地支配の正当化に腐心する日本政府としては、それはなんとしても避けたいのでしょう。

日帝による植民地支配の不法性については、「当時の価値観からすれば合法であり、歴史を現在の価値観で裁くのはナンセンスであるのだから、何の問題もない」という人もいるでしょう。しかし、その「当時の価値観」というものは、帝国主義列強が暴力で正当化した価値観にほかならず、その「帝国主義列強が暴力で正当化した」ことこそが問われているのですから、「当時の価値観からすれば合法」などというのは、日帝による植民地支配を正当化する理由にはなりません。それに、日帝による植民地支配の不法性を問うことは、「歴史を現在の価値観で裁く」ことなどではなく、日本政府が、あるいはあなたや私が、植民地支配という、人間の自由と尊厳を踏みにじる暴力的な権力構造に対して、まさに今どのような態度をとるか、ということなのです。つまり、現在の価値観で裁かれるのは「歴史」ではなく、現在の日本政府、あるいはあなたや私の、植民地支配という暴力構造に対する態度なのです。

以上のことから、「徴用工問題」が「単なる悪徳企業とそれに搾取された労働者の問題」ではないことや、日本政府が民事紛争である「徴用工訴訟」に執拗に介入せんとする理由が、おわかりいただけたでしょうか。「徴用工問題」を「単なる悪徳企業とそれに搾取された労働者の問題」と捉えてしまうことは、どうして日本政府が民事紛争である「徴用工訴訟」に執拗に介入せんとするのかについての理解を困難ならしめるだけでなく、問題を矮小化し、日帝による植民地支配という「加害の歴史」を忘却させる危うさがあります。

「徴用工」は、あくまでも日帝による植民地支配の問題です。だからこそ、日帝による植民地支配の問題を解決しなければ、「徴用工」の問題を解決することは決してできないのです。

 

辺野古新基地建設は、「環境保護」と「沖縄の民意」の問題でしかないのだろうか?

mainichi.jp

 

まず、はじめにお断りしておきますが、私は、辺野古新基地建設が「環境保護」と「沖縄の民意」の問題であることを否定するつもりはまったくありません。辺野古の豊かな海を破壊し、「沖縄の民意」を踏みにじる日本政府の暴挙を許せない気持ちは、私も同じです。

しかしながら、辺野古新基地建設を「環境保護」、あるいは「沖縄の民意」の問題としてしかとらえない昨今の風潮には、私はどうしても違和感を覚えてしまいます。それというのも、辺野古新基地建設は、「環境保護」、あるいは「沖縄の民意」の問題にとどまらない問題だからです。もちろん、私は「『環境保護』、あるいは『沖縄の民意』の問題にとどまらないのは、辺野古新基地建設が『国益』にかかわる問題だからだ」などと言いたいのではありません。私が言いたいのは、辺野古新基地建設は、なによりもまずアメリカの戦争に日本が加担することであって、それは「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」(日本国憲法前文)である「平和的生存権」という人権を侵害する問題である、ということです。

在日米軍基地建設は、自然環境さえ破壊しなければ、あるいは「沖縄の民意」に反しなければ許されるのでしょうか。思うに、在日米軍基地の存在がアメリカの戦争に平和憲法を持つ国であるはずの日本が加担するものである以上、たとえ自然環境を破壊しなくても、あるいは「沖縄の民意」に反しなくても、在日米軍基地建設は日本国憲法の基本原理である平和主義に違反し、平和的生存権を侵害するものであって、許されないのです。なお、平和的生存権は人権ですから、「日本人固有の権利」ではなく、人種、性、身分などの区別に関係なく、人間であることに基づいて当然に享有できる普遍的なものです。それゆえ、米軍基地が存在することで日本が標的にされ、日本人が戦争被害にあうおそれがある云々以前に、日本がアメリカの戦争に加担することで間接的に戦争加害者になることが問題なのです。

辺野古新基地建設を「環境保護」、あるいは「沖縄の民意」の問題としてしかとらえない人は、沖縄の美しい海や沖縄県民の姿は見えているのでしょう。しかし、はたして彼に、辺野古新基地から出撃する米軍によって殺されるであろう人々の姿は見えているのでしょうか。辺野古新基地建設に反対する人は、どうか辺野古新基地から出撃する米軍によって殺されるであろう人々にも想像をめぐらせてください。在日米軍基地は、日本のどこにあろうとそれ自体が、平和憲法を持つ国であるはずの日本がアメリカの戦争という人権侵害に加担することにほかならないのです。「辺野古新基地建設は、沖縄だけの問題ではない」というのは、私はそういうことだと思っています。

「日韓関係」に隠された、「新しい植民地体制」の問題。

japan.hani.co.kr

 

いわゆる「日韓問題」に関してしばしば言われるのが、上掲したハンギョレのコラムで山口二郎・法政大学教授が述べているような「東アジアの平和のためには日韓両国が協力することが不可欠である」という言説です。一見して穏当で“リベラル”な、このような言説に共感するリベラル人士もおそらく少なくないでしょう。しかしながら、このような穏当で“リベラル”な言説にも、大きな問題が隠されています。つまり、それは「東アジアの平和のためには日韓両国が協力することが不可欠である」という言説が、「日韓65年体制」という、新植民地主義的な体制を温存するものだということです。

1965年に締結された日韓基本条約に基づく「日韓65年体制」は、アメリカを頂点とした米・日・韓三角軍事同盟における日韓の協力体制という性格を持っており、そこでは、韓国が「反共の防壁」として軍事面の最前線を担い、日本は韓国の軍事政権を支えるべく資本投下や技術支援を行う、といったことがされてきました。これについて、きっと植民地主義者は「日本による資本投下や技術支援は韓国を発展させたのだから、『日韓65年体制』には何の問題もないはずだ」と言うでしょう。たしかに、日本による資本投下や技術支援は、国としての韓国のことは発展させたかもしれません。しかし、その発展は軍事政権およびそれと結託した資本家によって抑圧され搾取される韓国の人民の犠牲によって実現したものです。それに、なにも日本は“慈善事業”として韓国に対して資本投下や技術支援をしたのではありません。当然、「うまみ」があるから韓国に対して資本投下や技術支援をしたのです。つまり、日本は韓国の軍事政権支援を通じて韓国の人民を搾取し利益を得たのであって、まさにそれは、政治的には独立を認めながら、経済援助などの形で旧宗主国が経済的実権を手放さないまま、事実上、従来の支配・従属関係を維持しようとする「新植民地主義*1であるといえます。

さて、このような「日韓65年体制」を維持する上で、韓国がどうしてもしなければならないことがあります。それは、日本軍性奴隷問題や徴用工問題といった「日韓の歴史問題」に蓋をすることです。そのために、韓国の軍事政権は「歴史問題」を市民の手から奪って自らのコントロール下に置き、時には力づくで「歴史問題」の噴出を抑圧してきました。事実、日本軍性奴隷被害者が韓国民主化後の1991年まで沈黙を強いられてきたのは、軍事政権が「日韓65年体制」を維持するべく「日韓の歴史問題」に蓋をしてきたからだというのもありますし、そもそも日韓請求権協定で「国家間の財産・請求権の問題は完全かつ最終的に解決され」た(なお、日韓請求権協定で個人請求権が消滅していないことは、日本政府もこれを認めています*2。)という点で韓国が妥協したのも、「日韓65年体制」を構築するために「日韓の歴史問題」に蓋をする趣旨だといえます。

先にあげた「東アジアの平和のためには日韓両国が協力することが不可欠である」という言説の「東アジアの平和のため」とは、聞こえはいいですがその実は東アジアにおけるアメリカの軍事的覇権を確保するためです(もっとも、山口教授は「『東アジアの平和のため』とは『北朝鮮を非核化し、コリア半島和平を実現するため』である」とおっしゃるかもしれませんが、日本の政府もマスメディアも国民も、それこそ「保守」も「リベラル」も関係なく「北朝鮮悪魔視」をやめない現状に鑑みると、残念ながらそれさえも欺瞞としか思えません。)。つまり、東アジアにおけるアメリカの軍事的覇権を確保するために日韓両国が協力することが不可欠であるとするこの言説は、まさに「日韓65年体制の論理」によるものであるといえます。それゆえ、「東アジアの平和のためには日韓両国が協力することが不可欠である」の後には、次のような言葉が続くはずです。すなわち、「そして、そのためにも、日本軍性奴隷被害者や強制動員被害者といった日帝による植民地犯罪の被害者は、再び沈黙すべきである」という言葉が。

昨今の「徴用工問題」や「レーダー問題」といった「日韓問題」において「東アジアの平和のためには日韓両国が協力することが不可欠である」といった言説を持ち出す論者は、「植民地支配にかかわる損害について日本を批判する声があるのは当然である」などと日帝による植民地犯罪の被害者を慮ったところで、結局は「日韓65年体制」を死守したいのでしょう。山口教授は、どうやらその辺の思惑はなるべくオブラートに包もうとしているように感じますが、「徴用工問題」に関して「日韓は、1965年の基本条約や請求権協定を礎石として、信頼と協力を深めてきた歴史を忘れてはならない。……経済や安保など広く利害が重なる日韓関係の健全な発展のために、両国が心を落ち着かせて考える時である」などと述べている朝日新聞の社説には、その思惑が露骨に表れています*3。はたして「日韓65年体制」下の日韓関係の発展は、朝日新聞が言うように「健全な発展」だと言えるでしょうか。私は、朝日新聞と異なり、韓国の人民や日帝による植民地犯罪被害者の犠牲の上に成り立つ新植民地主義的な「日韓65年体制」下の日韓関係の発展が、「健全な発展」だとは思いません。「日韓関係の健全な発展のため」と言うのであれば、なによりもまず「日韓65年体制」を問い直すことが必要です。山口教授も政治学者ならば、日本軍性奴隷問題や徴用工問題の腹いせとして安倍政権が韓国に対する敵意を煽っている問題*4を日韓のナショナリズムの衝突という「どっちもどっち」の問題にすりかえる詭弁を弄するのではなく、「日韓65年体制」を問い直してみてはいかがでしょうか。率直に言って、「日韓65年体制」を問わない「日韓関係論」は、新植民地主義的な日韓関係を温存するための欺瞞でしかありません。

 

参考図書

honto.jp