葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日帝強制動員歴史館を見学しました。

f:id:yukito_ashibe:20181129201246j:plain

過日、韓国の釜山を旅した私は、国立日帝強制動員歴史館*1を見学しました。

f:id:yukito_ashibe:20181129201435j:plain

ご存知のように、昨今の日本では、日帝による加害の歴史を正当化する歴史修正主義が大手を振ってまかり通っています。

先般の徴用工訴訟判決に関しても、安倍首相は「徴用工でなく労働者だ」などと言って、問題を矮小化しようと躍起になっています*2。しかし、いくら「徴用工」を「労働者」に言い換えようと、決して変えられないことがあります。それは、日本帝国主義による暴力的な支配によって、多くの朝鮮人の尊厳が踏みにじられたということです。しかるに、日本政府や歴史修正主義者たちは、どうして日帝による加害の歴史を平気で否定し正当化できるのでしょうか。正直、私にはそれが理解できません。

f:id:yukito_ashibe:20181129201550j:plain

残念ながら、日本国民の多くも、日本政府や歴史修正主義者たちの戯言を鵜呑みにして、日帝による加害の歴史を正当化に加担してしまっています。おそらく、彼らの多くは、日本政府や歴史修正主義者たちの主張がどれほど正しいか(どれほどおかしいか)ということにさしたる関心はなく、「過去の出来事をいつまでも根に持ち、日本に刃向かい続けるなんて、韓国は酷い国だ」といった程度の認識なのでしょう。日本国民の多くがその程度の認識しか持てないのは、つまるところ日帝による加害の歴史を学んでいないからなのだと思います。日本国民は、一人の人間として日帝による加害の歴史を真摯に学んでも、なお日帝による加害の歴史を正当化し続けるでしょうか。私は、決してそんなことはないと思います。

f:id:yukito_ashibe:20181129201640j:plain

そもそも、加害国の国民である私は、なぜ被害国である韓国の釜山まで足を運ばなければ、日帝による加害の歴史を学ぶことができないのでしょうか(もっとも、私は日帝による加害の歴史を学ぶために釜山まで足を運ぶことも、それはそれで大切なことだと思っています。)。思うに、加害国である日本にこそ、日帝強制動員歴史館のような日帝による加害の歴史を学ぶことのできる場所が必要です。

そうはいっても、現時点では日本で日帝による加害の歴史を学ぶことが困難である以上、日帝による加害の歴史を学ぶためには韓国へ足を運ぶ必要があります。私は、ぜひ一人でも多くの日本国民が、韓国にある日帝強制動員歴史館のような日帝による加害の歴史を学ぶことのできる場所を訪問し、一人の人間として日帝による加害の歴史を真摯に学んでほしいと、切に願います。

f:id:yukito_ashibe:20181129202047j:plain

なお、韓国にある日帝による加害の歴史を学ぶことのできる場所として、私が個人的におすすめしたいのは、日本語による解説が充実しており、アクセスも便利な「釜山近代歴史館」です*3。釜山へ旅行される方は、ぜひ一度見学してみてください。

「韓国大法院の判決は請求権協定に反する」という日本政府の主張は、どこが間違っているか。

ご存知のように、先般韓国大法院が出した徴用工裁判の判決に関して、日本政府は「韓国大法院の判決は、日韓請求権協定に明らかに反する」と主張しています*1。そして、日本の多くのマスメディアも国民も、政府の主張を疑おうともせず「韓国大法院の判決は、日韓請求権協定に明らかに反する」の大合唱です。

しかしながら、「韓国大法院の判決は、日韓請求権協定に明らかに反する」という日本政府の主張は、はっきり言って間違いです。

たしかに、韓国大法院の判決は「日韓請求権協定で個人の請求権は消滅したのであり、それゆえ完全かつ最終的に解決済みである」という日本政府の主張には反するでしょう。しかし、それはあくまでも日本政府の主張にすぎず、韓国大法院の判断を拘束するような「客観的真実」などではありません(なお、11月14日の衆議院外務委員会で、ほかならぬ河野太郎外相が日韓請求権協定で個人の請求権が消滅していないことを認めており、もはや日本政府の主張には根拠がありません*2*3。)。そして、韓国大法院の判断は、「強制動員慰謝料請求権は請求権協定の適用対象に含まれない」とするものですから*4、そもそも日韓請求権協定に何ら抵触するものではありません。つまり、韓国大法院の判決は、日韓請求権協定に「明らかに反する」どころか、むしろ反しないことが明らかであり、したがって「韓国大法院の判決は、日韓請求権協定に明らかに反する」という日本政府の主張は間違いです。それとも、「韓国大法院は、日韓請求権協定を解釈するに際し、日本政府の見解に従わなければならない」とでも言うのでしょうか。しかし、それは(韓国大法院の)司法権の独立どころか、韓国の主権を無視した暴論です。また、日本政府の主張を支持するマスメディアや国民は「過去の盧武鉉政権は日韓請求権協定で個人の請求権が消滅していることを認めていた」ということをしきりに持ち出しますが、司法権の独立に鑑みれば、韓国大法院が過去の政府見解に拘束されなければならない理由はありません。そして、日本のみならず韓国でも条約が違憲審査の対象となることを肯定するのが通説ですから、条約について司法府が過去の政府見解と異なる司法判断を下すことには何ら理論的な問題はありません。

いかがでしょうか。少し落ち着いて考えてみれば、「韓国大法院の判決は、日韓請求権協定に明らかに反する」という日本政府の主張が間違いであることが容易にわかるかと思います。それにもかかわらず、日本の多くのマスメディアと国民が、政府の間違った主張を鵜呑みにして韓国を蔑視し、あるいは韓国への憎悪をたぎらせることに、私は不安と恐怖の念を禁じえません。

 

「ヒロシマ・ナガサキ」は、「忘れる」ためのものではない。

[社説]BTS騒ぎに映った韓日関係の悲しい姿 : 社説・コラム : hankyoreh japan

 

防弾少年団(BTS)のメンバーが着用していたTシャツが原爆投下を正当化するものだというのは誤解(というよりも、むしろ曲解)ですが、しかし、この問題の背景に韓国における「原爆投下による解放“神話”」に対する“信仰”があることは否めません。

もちろん、「原爆投下による解放“神話”」に対する批判はあってしかるべきです。しかし、「“原爆Tシャツ”は、『唯一の被爆国』である日本の国民として不快だ」と言う人は、これまで「日本の国民」として、どれだけ真剣に日本の加害の歴史と向き合ってきましたか?

誤解のないようにお断りしておきますが、私はなにも「BTSメンバーのTシャツ着用を一切批判してはならない」などと言うつもりはありません。また、私のこの問いが、真剣に日本の加害の歴史と向き合ってきた人の気分を害したのであれば申し訳なく思います(ただ、真剣に日本の加害の歴史と向き合ってこなかったにもかかわらず、BTSメンバーのTシャツ着用への批判だけは一人前にする日本国民が少なからずいる現実からは、どうか目を背けないでください。)。しかし、そもそも原爆加害国はアメリカであって、韓国ではありません。そして、日本は韓国との関係では(植民地支配の)加害国でしかありません。さらに、原爆加害についていえば、日本による植民地支配がなければ被爆することはなかったであろう約7万人の朝鮮(韓国)人を被爆させた日本は、韓国との関係では間接的な加害国であるとさえ言えるでしょう。どうやら、日本国民はそのことを「唯一の被爆国」という欺瞞に満ちた言葉によってすっかり忘れてしまっているようですが、「原爆投下による解放“神話”」を正しく批判するためにも、日本国民はそのことを決して忘れてはなりません。

しかるに、残念ながら「ヒロシマナガサキ」は、血で汚れた日本の身を清め、加害の歴史を忘れるための、いわば「戦後平和主義の靖国」になりつつあるように思います(これについては、「保守」のみならず「リベラル」にも責任の一端はあると思います。)。「ヒロシマ」の平和記念資料館で、原爆投下という残虐行為に胸を痛め、憤慨し、世界平和を祈る「日本人」が、どうして「廣島」の大和ミュージアムでは、日本の軍国主義を賛美し、感動できるのでしょうか。あるいは、「ナガサキ」の原爆資料館で、原爆投下という残虐行為に胸を痛め、憤慨し、世界平和を祈る「日本人」が、どうして「長崎」の軍艦島では、植民地朝鮮出身の労働者を虐げ、搾取することで栄華を誇った「帝国主義の遺構」を見て感動できるのでしょうか。それは、きっと「ヒロシマナガサキ」が、「唯一の被爆国」という言葉で象徴される「被爆ナショナリズム」と相まって、日本人以外の被爆者の存在と日本の加害の歴史を「日本人」に忘れさせるからでしょう。

ヒロシマナガサキ」は、決して日本の加害の歴史を忘れるためのものではありません。日本国民は、決して「ヒロシマナガサキ」を「戦後平和主義の靖国」にしてはなりません。「ヒロシマナガサキ」を「戦後平和主義の靖国」にしてしまうのは、それこそ原爆被害者に対する冒涜です。

ヒロシマナガサキ」が象徴する平和を、「日本人」のためのものではなく、真に世界人類にとって普遍的なものとするためにも、日本国民は、「唯一の被爆国」という言葉で象徴される「被爆ナショナリズム」を克服し、そして、日本の加害の歴史と向き合わなければならないのです。

徴用工訴訟判決をめぐる問題について

「徴用工訴訟判決をめぐる問題」を問うと、おそらく日本国民の多くは「(韓国大法院が出した)判決そのものに問題がある」と答えるでしょう。そして、安倍首相や河野外相に倣って「国際法違反だ」と言うかもしれません。事実、日本では安倍首相の「今般の判決は国際法に照らして、ありえない判断であります」に倣うかのように、マスメディアも国民も「ありえない判決」の大合唱です。

たしかに、「1965年の請求権協定により完全かつ最終的に解決済みである」という日本政府の主張からすると、今回の韓国大法院が出した判決は「ありえない」ものかもしれません。しかし、それはあくまでも「1965年の請求権協定により完全かつ最終的に解決済みである」という日本政府の主張が絶対的に正しいということが前提です。そうだとすると、韓国大法院の判決を「ありえない」ものだと言う日本のマスメディアや国民は、「1965年の請求権協定により完全かつ最終的に解決済みである」という日本政府の主張が絶対的に正しいと考えていることになります。

「1965年の請求権協定により完全かつ最終的に解決済みである」という日本政府の主張は、つまり「いわゆる『日韓請求権協定』の第2条1項の『両締約国の国民間の請求権』には被害者の個人請求権も含まれるのであって、それゆえ被害者の個人請求権は『日韓請求権協定』によってすでに消滅しているのだから、完全かつ最終的に解決済みである」ということです。これに対して、韓国大法院は「いわゆる『日韓請求権協定』の第2条1項の『両締約国の国民間の請求権』には被害者の個人請求権は含まれない」と判断したのですが(なお、韓国大法院は、私が次に述べるのとは別のアプローチを用いていますが、その点については後述します。)、それを日本政府やマスメディア、そして国民が「ありえない判断だ」と言っているのです。

しかしながら、国家と個人が別個の法的主体であるという近代法の原理に鑑みれば、個人の持つ請求権について政府が勝手に処分することはできないはずです。そして、国家と個人が別個の法的主体であるという近代法の原理が国際法上も受け入れられているというのは、世界人権宣言・国際人権宣言が個人の尊厳を基本原理としていることに鑑みても明らかです。そうだとすれば、「日韓請求権協定」という国家間の合意によって被害者の個人請求権を消滅させることはできないと解するのが妥当であり、それは決して「国際法に照らして、ありえない判断」ではありません。しかるに、日本政府やマスメディア、そして国民が「ありえない判断だ」と言うのは、日本では国家と個人が別個の法的主体ではなく、個人の持つ請求権について政府が勝手に処分することができるということでしょうか。まさか、そんなはずはないでしょう。

被害者の個人請求権が消滅していないとの立場をとっているのは、なにも韓国側だけではありません。ほかならぬ日本政府自身が、過去には「日韓請求権協定」によって個人請求権が消滅しないことを認めていたのです*1*2。日本のマスメディアは、二言目には「韓国大法院の判決は、過去の盧武鉉政権の立場と矛盾するものだ」と言って、あたかも韓国が「不誠実」であるかのような印象操作を図っていますが、しかし、それを言うのであれば、日本政府が個人請求権の消滅を主張するのも過去の日本政府の立場と矛盾するものだと言わざるを得ません。

さて、このように韓国大法院(の多数意見)*3は、「日韓請求権協定」第2条1項の『両締約国の国民間の請求権』に被害者の個人請求権は含まれないと判断したのですが、その根拠は、「被害者の損害賠償請求権が未払い賃金や補償金を要求するものではなく、日本政府の違法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本軍需会社の『反人道的不法行為』に対する『慰謝料請求権』である」こと、および「日韓請求権協定の交渉過程」です。「日韓請求権協定」の交渉過程で日本政府は、植民地支配の不法性を認めず、強制動員被害の法的賠償を基本的に否認しました。それゆえ、このような状況で強制動員慰謝料請求権が請求権協定の適用対象に含まれたとみるのは困難であるということです。この点に関して、日本が支払った「経済協力金」の性格が問題となりますが、これについては、あくまでも「純粋な経済協力金」あるいは「韓国への独立祝賀金」であるというのが、日本政府の一貫した立場です*4(それゆえ、この点でも日本政府の態度は矛盾しています。)。そうだとすれば、やはり「強制動員慰謝料請求権は請求権協定の適用対象に含まれない」とみるのが合理的だといえます。

ところで、安倍首相らの言う「国際法違反」というのは、韓国大法院の判断のどこがどう「国際法」に違反するのか不明確ですが、おそらく安倍首相らは「『日韓請求権協定』という『国際法』に違反する」と言いたいのでしょう。たしかに、韓国大法院の判断は「『日韓請求権協定』の第2条1項の『両締約国の国民間の請求権』には被害者の個人請求権も含まれる」とする日本政府の解釈には反するでしょう。しかし、それはあくまでも日本政府の解釈にすぎません。そして、韓国大法院が日本政府の解釈に従わなければならない理由はありません。そうだとすれば、韓国大法院の判断は日本政府の解釈に反するものの、決して「日韓請求権協定」には反しません。したがって、安倍首相らの言う「国際法違反」というのは、ただの言いがかりにすぎません。

それでも、安倍首相らは「過去の盧武鉉政権は個人請求権の消滅を認めていたのだから、それが韓国政府の立場だ。だから、大法院の判決は『日韓請求権協定』に違反するのだ」と言うかもしれません。事実、日本のマスメディアは韓国大法院の判決を「日韓両国が『解決済み』としてきた問題を、司法がひっくり返した」などと報じていますし*5、日本国民の多数もそのように見ているようです。しかしながら、それは「法の支配」や「権力分立」を理解していない、間違った見識です。「法の支配」や「権力分立」に立脚した国家では、司法権の独立が確保され、司法府の判断が政府見解に拘束されることはありません。そして、「法の支配」や「権力分立」に立脚した国家における司法の役割は、「法」(なお、ここでいう「法」とは、いわゆる「法律」のことではありません。)に照らして政府の過ちを正すことです。そうだとすれば、韓国大法院の判断が韓国政府の見解に拘束される理由はなく、そして、被害者の人権を軽視する過去の政府見解の過ちを正すことは、「法の支配」や「権力分立」に立脚した国家における司法の役割に適うものであるといえます。また、日本のマスメディアは冷笑していますが、「司法の判断を尊重する」という文在寅政権の態度は、「法の支配」や「権力分立」に立脚した国家における行政府の態度しては、至極当然のものであるといえます。そして、文在寅政権が被害者の人権を軽視する過去の政府見解を自ら是正するとすれば、それは「法の支配」の理念に適うものです。したがって、安倍首相らの言う「国際法違反」というのは、やはりただの言いがかりにすぎません。

こうしてみると、今般の韓国大法院の判決が、安倍首相の言うような「国際法に照らして、ありえない判断」ではないことがお分かりいただけるかと思います。しかるに、 まさに国を挙げての「ありえない判決」の大合唱は、それこそ(本当に日本がそうであるかはさておき)立憲民主主義の国として「ありえない」と言わざるを得ません。

それにしても、なぜ日本政府(与党)のみならず、野党第一党やマスメディア、そして日本国民は、今般の韓国大法院の判決を躍起になって敵視するのでしょうか。それは、今般の判決の「核心部分」でもありますが、結局のところ日帝による植民地支配を何が何でも正当化するためです。つまり、今般の韓国大法院の判決で、「日本」が過去の植民地支配を反省したというのが全くのまやかしであることが、はからずも露見してしまったのです。そうである以上、「日本は過去の植民地支配をもう十分に反省し、謝罪したじゃないか」などという戯言は、もはや通用しません。

徴用工訴訟判決と、日本の“リベラル”メディアの終焉。

www.asahi.com

 

朝日新聞のこの社説ですが、徴用工や日本軍性奴隷被害者といった日帝による植民地支配の被害者に対する抑圧の上に成り立ってきた、新植民地主義的な「日韓関係」が維持できなくことばかり憂慮し、被害者の人権救済など「日韓関係」の維持に比べれば取るに足らないものだと言わんばかりの、植民地主義に満ち溢れた、なんとも傲慢で浅薄な社説です。

もちろん、朝日新聞は日本を代表する“リベラル”紙ですから、「多くの人々に暴力的な動員や過酷な労働を強いた史実を認めることに及び腰であってはならない」と述べてはいます。しかし、「多くの人々に暴力的な動員や過酷な労働を強いた史実を認める」のであれば、「1965年の国交正常化に伴う請求権協定で元徴用工への補償問題は解決済み」などという日本政府や企業側の一方的な主張を擁護し、韓国大法院の判決を非難する論調の社説など書けないはずです。なぜなら、「1965年の国交正常化に伴う請求権協定で元徴用工への補償問題は解決済み」という日本政府らの主張は、日帝による植民地支配の合法性が前提なのであり、「多くの人々に暴力的な動員や過酷な労働を強いた史実を認める」とすると、その前提が崩れてしまうことになりかねないからです。つまり、本当に「多くの人々に暴力的な動員や過酷な労働を強いた史実を認める」のであれば、「1965年の国交正常化に伴う請求権協定で元徴用工への補償問題は解決済み」などという戯言を擁護することなどできないということです。

そもそも、日本政府らの「1965年の国交正常化に伴う請求権協定で元徴用工への補償問題は解決済み」という主張は、はたして“唯一の正解”なのでしょうか。この点について、朝日新聞に限らず日本のマスメディアは、盧武鉉政権が「請求権協定当時の経済協力金に、補償が含まれる」との見解に立っていたことをしきりに強調します。たしかに、それは事実でしょう。しかし、それはあくまでも盧武鉉政権の話であって、「法の支配」に立脚し、権力の分立が定められている国家である韓国の司法府が、過去の行政府の見解に拘束されるいわれはありません。そして、「法の支配」に立脚し、権力の分立が定められている国家である韓国の現在の行政府である文在寅政権が、現在の司法府の判断を尊重するというのは当然のことです。そうだとすれば、「国内の事情によって国際協定をめぐる見解を変転させれば、国の整合性が問われ、信頼性も傷つきかねない」などと言うのは、この社説子が「法の支配」や「権力分立」をまるで理解していないことを白状するようなものです。

「個人請求権」についての見解の変遷は、なにも韓国政府に限った話ではありません。日本政府は、請求権協定締結当時から少なくとも1990年代までは個人請求権が消滅していないとの立場を取っていました。そして、日本人が被害者であるシベリア抑留問題では、被害者は加害国である当時のソ連への請求権を持っているとの立場を取っていたのです*1*2。しかるに、その点については触れず、韓国についてのみ「国内の事情によって国際協定をめぐる見解を変転させれば、国の整合性が問われ、信頼性も傷つきかねない」などと言うのは、「韓国は信用できない、非理性的な国家である」との印象操作をして、韓国に対する蔑視を煽るものでしかありません。

「法の支配」に立脚し、権力の分立が定められている国家では、立法や行政の過ちを「法」(なお、ここで言う「法」とは、いわゆる「法律」のことではありません。)に照らして是正するのが司法の役目です。そうだとすると、今回の韓国大法院の司法判断を「日韓両国が『解決済み』としてきた問題を、司法がひっくり返した形だ」などと言う*3朝日新聞の記者は、司法の役目をいったい何だと思っているのでしょうか。そのようなことを言う朝日新聞の記者は、例えばもし、日本の最高裁が(朝日新聞も批判的に報じていた)安保法制を違憲とする判決を出したとして、それが政府見解と異なるがゆえに「政府見解を、司法がひっくり返した形だ」とでも言うのでしょうか。もしそうであれば、記者としての見識を疑います。

ところで、日本のマスメディアは「1965年の国交正常化に伴う請求権協定で元徴用工への補償問題は解決済み」という日本政府らの主張が正しいものであることを前提として話を進めていますが、しかし、そもそもこの日本政府らの主張が正しいものであると断定することはできません。なぜなら、「日本の国家権力が関与した反人道的不法行為と、植民地支配と直結した不法行為に対する損害賠償請求権は両国の請求権協定の対象外」と解することもできるからです。そして、「日韓請求権協定」交渉過程で両国政府が日本の朝鮮半島支配の性格に関する合意に至らなかった点に鑑みれば、「日韓請求権協定」は日本に植民地支配に対する賠償を請求するためのものではなくサンフランシスコ講和条約に基づき両国間の債権・債務関係を政治的合意によって解決しようとしたものといえるのであり、また、請求権協定第1条により日本政府が韓国政府に支払った経済協力資金は、協定第2条に明記された個人の権利問題の解決と法的対価関係にあるとみることはできない(経済協力資金は、賠償金ではなく「勧告独立のお祝い金」である、とするのが、ほかでもない日本側の認識です。*4)ことを考えれば、そのように解するのが妥当であるといえます*5

しかるに、そのことについては触れず、「1965年の国交正常化に伴う請求権協定で元徴用工への補償問題は解決済み」という日本政府らの主張が正しいものであることを前提として話を進める日本のマスメディアは、あまりにも不誠実であると言わざるを得ません。

それにしても、日本のマスメディアは、二言目には「日韓関係への影響が」云々言いますが、どうしてそれしか言えないのでしょうか。ハンギョレ新聞のコラムでは、同紙のチョ・ギウォン記者が「強制徴用者個人の痛みと傷を無視して作った韓日関係の基礎には、大きな亀裂が生じる可能性がある。しかし、個人に犠牲を強要して、国家間の関係のみを強調した関係自体が、どうして正しいことだったと言えようか」と述べています*6。日本のマスコミ人は、どうしてこれが言えないのでしょうか。もし個人の尊厳よりも国家間の関係のほうが重要だと言うのならば、それは個人の尊厳よりも国益のほうが重要だという自民党政権、あるいは「御国のため」という名目で個人の尊厳を蹂躙した日本帝国主義と何ら変わりはありません。

徴用工訴訟判決は、日帝による植民地支配の被害者の声を封殺し、「日韓関係」を非対称な形に歪めてきた「65年体制」を根本から見直す第一歩となりました。しかし同時に、朝日新聞に代表される日本の“リベラル”メディアが終焉を迎えるきっかけとなってしまいました。願わくば、この終焉が、日本の“リベラル”メディアが再生するきっかけとなりますように。

 

 

 

差別は「人間の本性」の問題ではない

「差別は人間の本性に根ざす現象なのであるから、差別があるのは仕方ないことだ」と言う人がいます。

たしかに、人間誰しも「差別心」を抱いたことは一度ならずともあるでしょう。しかし、差別を「人間の本性」の問題と捉え、「差別があるのは仕方ないことだ」と考えるのは間違いです。

思うに、人間が「差別心」を抱くのは、それが「人間の本性」だからではなく、社会に「差別構造」があるからです。つまり、社会に「差別構造」がなければ、人間は「差別心」を抱きようがないのです。ある人の所属する社会の構造が差別を生み出し、その差別を「是」とする価値観がその社会を支配するから、彼は「差別心」を抱くことができるのです。そして、その「差別構造」は、自然なものではなく、「差別」を必要とする「力を持つ者」によって作られたものです。だから、決して「差別があるのは仕方ないこと」ではないのです。

もっとも、社会に「差別構造」がなかったとしても、人間が「好き嫌い」や「快・不快」という個人的な感情を抱くことはあるでしょう。しかし、そもそも「差別」は人権問題であって、「好き嫌い」という個人的な感情の問題ではありません。おそらく、「差別は人間の本性に根ざす現象なのである」というのは、「差別」という人権問題を「好き嫌い」や「快・不快」というという個人的な感情の問題と履き違えているのだと思います。

さて、こうして考えてみると、「差別は人間の本性に根ざす現象なのであるから、差別があるのは仕方ないことだ」いう言説が、「差別」を必要とする「力を持つ者」によって作られた「差別構造」を温存し、差別を正当化するための詭弁であるということがよく分かるでしょう。差別があるのは、決して仕方ないことではありません。差別を生み出す社会の構造は、それが人間によって作られたものである以上、私たちはそれを壊していくことができるのです。むしろ、私たちは、私たち一人ひとりが「尊厳ある人間」として生きていくためにも、それを壊していかなければなりません。

ヘイトスピーチを正当化する「詭弁」について

ヘイトスピーチ規制に関して、規制反対派の中には「少数者の権利を守るものは、多数決によっても侵害し得ない『表現の自由』以外にはなく、マイノリティーこそ『表現の自由』を大事にすべきである(から、ヘイトスピーチを規制すべきではない)」ということを主張する人がいます*1

たしかに、「表現の自由」が多数決によっても侵害し得ない人権であることはその通りです。しかし、彼はひとつ大事なことを隠しています。それは、彼の主張は、「ヘイトスピーチ」が人権として保障される「表現の自由」の「表現」に含まれることを前提としてはじめて成り立つものだということです。

もちろん、「ヘイトスピーチ」が人権として保障される「表現の自由」の「表現」に含まれると解することは、論理的には可能でしょう。しかし、ヘイトスピーチ憲法による「表現の自由」の保障が究極の目的とする「個人の尊厳」を踏みにじるものであり、それゆえこれを人権として保障される「表現の自由」の「表現」に含まれるとするのは憲法が「表現の自由」の保障をした趣旨に悖るのであるから、ヘイトスピーチは「表現の自由」の「表現」に含まれない、と解することもできるのです(「(ヘイトスピーチの)違法性が顕著であれば憲法が定める集会や表現の自由の保障の範囲外」だとした横浜地裁川崎支部の決定*2の要旨も、そのような解釈であると思います。)。しかるに、「ヘイトスピーチ」が人権として保障される「表現の自由」の「表現」に含まれることが絶対的な前提であるとする主張は、「詭弁」であると言わざるを得ません。

思うに、前述のとおり憲法による「表現の自由」の保障が究極的には「個人の尊厳」を目的とすることに鑑みれば、「個人の尊厳」を踏みにじるヘイトスピーチヘイトスピーチによって尊厳を踏みにじられるのは、「◯◯人」や「△△民族」といった抽象的な「記号的存在」ではなく、一人ひとり、名前も、性別も、年齢も、声も、容姿も異なる、生身の人間です。)は「表現の自由」の「表現」に含まれないと解するのが妥当です。これに対しては、規制反対派は「ヘイトスピーチは『表現の自由』の『表現』に含まれないと解すれば、『表現の自由』に対する広範な規制を招きかねない」と批判するでしょう。しかし、それは「ヘイトスピーチの自由は憲法で保障される『表現の自由』か否か」の問題と「(問題となる規制が)『公共の福祉』の福祉による規制として憲法上許されるものか否か」の問題を混同しています。つまり、ヘイトスピーチは「表現の自由」の「表現」に含まれないと解したとしても、(「表現の自由」の「表現」に含まれない)「ヘイトスピーチ」の定義を厳格に定めれば、「表現の自由」に対する広範な規制を招くことはありません。もっとも、「ヘイトスピーチ」が人権として保障される「表現の自由」の「表現」に含まれると解したとしても、「公共の福祉」によるヘイトスピーチ規制を認めるのであれば(そもそも規制反対派は、ヘイトスピーチ規制を許さないでしょうが……しかし、それはヘイトスピーチによって個人の尊厳が踏みにじられている現実を無視するものであって、憲法的正義に悖るといえます。)、結論は異ならないかもしれません。しかし、ヘイトスピーチという人権侵害問題が「好き嫌い」や「快不快」の問題に矮小化されてしまっている昨今の日本社会の状況に鑑みれば、「『個人の尊厳』を踏みにじるヘイトスピーチは『表現の自由』の『表現』に含まれない」ことを明確にし、宣言することが大切なのです。

そもそも、マジョリティが「マイノリティーこそ『表現の自由』を大事にすべきである」などというのも、それはマイノリティに対する責任転嫁にほかならず、また、それはマジョリティの傲慢と言わざるを得ません。「『表現の自由』を大事にすべきである」という台詞は、ヘイトスピーチという個人の尊厳を踏みにじる「暴力」によって「表現の自由」の価値を傷つけるマジョリティに対してこそ言うべきです。

それにしても、規制反対派はどうして詭弁を弄してまで「ヘイトスピーチの自由」を守ろうとするのでしょうか。おそらく、彼らは「表現の自由を守るためだ」と言うのでしょうが、しかし、「ヘイトスピーチの自由」を守ることは「表現の自由」を守ることではありません。「ヘイトスピーチの自由」を守ることは、「表現の自由」を守るどころか、むしろヘイトスピーチという人権侵害を正当化し「表現の自由」の価値を傷つけることにほかならないのです。