葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

高橋哲哉教授の「米軍基地引き取り論」への疑問

「なぜ「県外移設」=基地引き取りなのか」東京大学教授・高橋 哲哉 | 特集/混迷する世界への視座

 

沖縄への異常な基地偏在が「沖縄差別」であることについては、もちろん私も異論はありませんし、私自身が構造的には「差別している側」の人間であることは言い逃れできない事実です。しかし、高橋先生ご自身がおっしゃるように沖縄への異常な基地偏在が「構造的差別」の問題であり、また、「平和主義の憲法」を持つ国である(はずの)日本国の国民が真摯に向き合うべき「日米安保条約」の問題であるからこそ、私は高橋先生の「米軍基地引き取り論」にはどうしても疑問を禁じえません。

まず、高橋先生は「本土(私は、そもそもこの「本土」という言葉に違和感を禁じえないのですが……)への米軍基地引き取り」を正当化する理由として、「日米安全保障条約が『日本の平和と安全に役だっている』という人は、近年の世論調査で80%を超えている。安保条約を『今後も維持することに賛成』の人も、同じく80%に達している」ことを挙げておられます。たしかに、「本土」の「日本国民」の多数が日米安保条約を必要だと考えているということは、「本土への米軍基地引き取り」に一理あるようにも思えます。 しかし、ここで忘れてならないのは、日米安保条約の問題というのは「平和的生存権」という人権の問題である(なお、「平和的生存権」については名古屋高裁自衛隊イラク派遣差止訴訟判決を参照してください*1)ということです。つまり、「平和的生存権」という人権の問題である以上、「多数決の論理」によって日米安保条約による平和的生存権の侵害を正当化することは許されないはずです。しかるに、なぜ高橋先生はその点を無視するのでしょうか。もちろん、「多数決の論理」によって沖縄の人々の平和的生存権が侵害されている現状を正当化することが許されないことは言うまでもありません。しかし、そうであれば、同様に「多数決の論理」によって「本土」の人民の平和的生存権の侵害を正当化することも許されないのです。

もっとも、「沖縄の人々が、米軍基地を存置する決定に一度も参加させられたことがない」のであるから、米軍基地の存置は民主主義的根拠を欠く不当なものであるというのは、たしかに高橋先生のおっしゃるとおりです。しかし、高橋先生はひとつ大事なことを忘れておられます。それは、被治者であるにもかかわらず民主主義のプロセスから疎外されている人々の存在です。そのような人々を「『本土』の国民」に束ねるというのは、全体主義的であると言わざるを得ません。

つぎに、高橋先生は反戦平和運動における「米軍基地は沖縄にも日本のどこにもいらない」というアピールを批判し、「革新勢力が何十年と『安保廃棄』を唱えてきても、安保支持は減るどころか漸増を続け、今や8割を超え9割に達しようとしている。反戦平和の立場であっても、こうした状況で直ちに『安保廃棄』が見通せない限り、『安保廃棄』が実現するまでは、『県外移設』によって沖縄の基地負担を引き受けるしかないのではないか」ということを主張しておられます。たしかに、直ちに「安保廃棄」が見通せないのは事実です。しかし、だからといって「『県外移設』によって沖縄の基地負担を引き受けるしかないのではないか」というのは、「現状追認」にほかなりません。それは、あたかも「憲法は『戦力』の保持を禁止しているが、現実には自衛隊という『戦力』が存在するのであるから、憲法を改正すべきである」と言うのと同じです。それに、「革新勢力が何十年と『安保廃棄』を唱えてきても、安保支持は減るどころか漸増を続け、今や8割を超え9割に達しようとしている」ことを理由に、「安保廃棄」を唱えることが無駄だというのであれば、「本土」に米軍基地を引き取ったところで、在日米軍が拡大・増強するだけであって、それは沖縄の人々に米軍基地を押しつけている「真の主犯」である米日両政府を利するだけです。そもそも、沖縄への異常な基地偏在が「構造的差別」の問題だとすれば、その差別構造を真に必要としているのは、いったい誰でしょうか。この点について、私は「米軍基地引き取り論」に、「一億総懺悔論」に通ずるものを感じてしまいます。

お断りしておきますが、私は厄介だから(もっとも、基地周辺の住民にとって基地は厄介以外の何ものでもないでしょうが)というだけの理由で「米軍基地引き取り論」を批判しているのでありません。日本に米軍基地が存在することそれ自体がアメリカの戦争への加担であるから、批判しているのです。高橋先生も「在日米軍基地から海外の紛争地域に米軍が出撃し、戦後日本は朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争、『対テロ戦争』、イラク戦争などで事実上米軍に加担してきた」とおっしゃっています。そしてまた、「『平和国家』を標榜する日本に多数の米軍基地を置くのはおかしいと考える」ともおっしゃっています。それなのに、どうしてアメリカへの戦争への加担を容認するのでしょうか。その点に関して、高橋先生は「問題解決のプロセスのなかで安保条約を『前提』せざるをえないことと、安保条約を『容認』することとは違う」とおっしゃっていますが、私には苦し紛れの言い訳にしか聞こえません。「『平和国家』を標榜する日本に多数の米軍基地を置くのはおかしいと考える」のであれば、問うべきは「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」です。しかるに、「安保条約は『前提』なのだから不問に付すべし」というのは、「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」を容認することにほかなりません。そもそも、「問題解決のプロセスのなかで安保条約を『前提』せざるをえない」とは、いったいどういうことでしょうか。「安保条約が事実として存在し、それを前提として現実が動いている以上、基地問題について対応しようとすれば、誰もがそれを前提として動かざるをえない」というのも、やはり「現状追認」でしかありません。また、差別的な地位協定に関しては、その根源である「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」そのものを問うこともできるのであって(「『平和国家』を標榜する日本に多数の米軍基地を置くのはおかしいと考える」立場からは、むしろ「日米安保条約」という「アメリカの戦争への加担」そのものを問うのが筋でしょう)、「日米安保条約」を絶対的な前提として話を進めるのは、はっきり言って詭弁です。

「前提」についていうのであれば、そもそも日本の人民が米軍駐留の「利益」を享受しているというのは、あくまでも日米両政府の「言い分」であって、正しくはありません。在日米軍は、あくまでも米軍の世界戦略というアメリカの利益のためのものです。日本の利益は、アメリカの戦争に加担することで得られる反射的なものにすぎず、しかも、それはあくまでも「国家」の利益であって、人民の利益ではありません。そうであれば、「本土への米軍基地引き取り」を正当化する理由として「利益の享受」云々を持ち出すのは、まったくのナンセンスです。それこそ、国家の「言い分」を鵜呑みにした、まさに「思考停止」ではないでしょうか。「茶色の朝」を迎えたくなければ、思考停止をやめることです*2

しばしば「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」ということが言われますが、それは間違いです。「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」のではなく、日本がアメリカの戦争に加担しているのです。米軍基地問題に関しては、よく「日本国民は当事者意識を持て」ということが言われますが、憲法9条の存在にもかかわらず日本がアメリカの戦争に加担していることをしっかりと認識するのも、これもまた日本国民に必要な「当事者意識」ではないでしょうか。

「当事者意識」について、高橋先生が「『本土』の有権者が『県外移設』=基地引き取りに向き合うことは、安保廃棄の道筋としても必要であ」るとおっしゃるのは、「『本土』の有権者」は米軍基地を身をもって経験しなければ「当事者意識」を持つことができないだろう、ということなのでしょう。たしかに、沖縄の米軍基地問題を他人事と思っている「『本土』の有権者」には、そのような荒療治が効果的かもしれません。しかし、私はそれに「平和のための徴兵制」論と同様の危うさを感じます。はたして「アメリカの戦争への加担」を伴うものだけが、沖縄の米軍基地問題を他人事と思っている「『本土』の有権者」に「当事者意識」を持たせるために採るべき唯一の方法でしょうか。米軍基地問題の解決という恒久平和主義の実現のために、「アメリカの戦争への加担」を容認するというのは、それこそ本末転倒ではないでしょうか。そもそも、「『本土』の有権者」は米軍基地を身をもって経験しなければ「当事者意識」を持つことができない」と決めつけるのは、「教育者」の態度としていかがなものかと思います。もし「『本土』の有権者」は米軍基地を身をもって経験しなければ「当事者意識」を持つことができない」というのが真実だとすれば、それはまさに「知性の敗北」でしょう。

沖縄タイムスは、高橋先生の「米軍基地引き取り論」を「筋の通った理(ことわり)は胸に響く」と称賛しています*3。しかし、残念ながら私には、それが「筋の通った理」であるとは思えません。それどころか、学者としての「知的誠実さ」を欠くものであるように感じられます。私自身、高橋先生の『国家と犠牲』*4から多くを学んだ一人ですので、ほかならぬ高橋先生ご自身が国民動員の巧妙な「犠牲の論理」に囚われてしまったことを、大変残念に思います。

最後に、高橋先生は「革新勢力が何十年と『安保廃棄』を唱えてきても、安保支持は減るどころか漸増を続け……」と冷笑なさるでしょうが、それでもあえて言います。米軍基地は、沖縄にも日本のどこにもいらない!これ以上誰も、殺し、殺されるな!

 

「国民性」という概念を用いて「日本における差別」を語ることの危うさ

日本社会に差別が蔓延する理由として、「国民性」という概念を持ち出す人がいます。

おそらく、それに賛同する人も少なくないでしょう。

しかし、私はそのように「国民性」という概念を安易に持ち出すことには賛同できません。思うに、そこでいう「国民性」が「国民の素質」を意味するのであれば、それは「個人」を蔑ろにする間違ったものであり、「問題の本質」を見誤るものであるといえます。

日本社会に差別が蔓延するのは、「個人」を無視した「国民性」などではなく、国家があたかも差別に加担することが「国民の条件」であるかのような「空気」を醸し出し、「国民」を差別へと駆り立てるからです。つまり、「国民」という「束ねられる側」ではなく、「国家」という「束ねる側」に由来する問題だということです。もし「国民」たる人民に非難されるべき点があるとすれば、それは「国民性」なるものを備えている点ではなく、「国家」が醸し出す「空気」に抗わずに易々と差別加担へと動員されてしまう点でしょう。もっとも、そうであれば「国民」たる人民は、自らが「国民」であることの危うさに自覚的であるべき(もちろん、これは「国民」として束ねられている私自身についても言えることです)なのですが、残念ながらその点に無頓着な「国民」が少なくないようです。

そもそも「国民」という概念は、「同化と排除」の機能をもつ暴力的なものです。そうであれば、たとえ日本社会を批判する文脈で用いるのであっても、「国民性」という暴力性を帯びた概念を安易に用いることは厳に慎むべきです。

なお、くれぐれも誤解しないでいただきたいのですが、私は決して「日本社会に差別が蔓延する理由として『国民性』という概念を持ち出すのは、日本人に対するヘイトスピーチだ」などという馬鹿げたことを言いたいのではありません。私が言いたいのは、「国民性」という概念を用いて「日本における差別」を語ることの危うさです。先にも述べましたが、日本社会に蔓延する差別に抗する皆さんは、どうか「問題の本質」を見誤らないでください。

 

独立紀念館で考えたこと

過日、韓国を旅した私は、天安にある独立紀念館を訪問しました。

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独立紀念館は、日本ではしばしば「(韓国国民の)ナショナリズム高揚のための反日施設」だなどと評されます。

もちろん、国立博物館に準ずる施設ですから、「ナショナリズム高揚」的な要素が皆無ではありません。しかし、ここを訪れた日本国民が、その展示をナショナリズムを過剰に煽る、誇張あるいは捏造されたものだと思うのであれば、それは彼がその展示を、韓国を劣ったものとして見下す「日本国民のまなざし」で見ているからではないでしょうか。いったい何を根拠に、彼はその展示をナショナリズムを過剰に煽る、誇張あるいは捏造されたものだと思うのでしょうか。もし彼が近代日本の「正史」を根拠にそう思うのであれば、それはやはり、彼が「コリア停滞史観」によって形作られた「日本国民のまなざし」によって見ているからであるといえます。残念ながら、日本国民は決して「神の目を持つ者」などではありません。そうであれば、可及的に「客観視」するには「他者」の側から見るしかないのです。

そもそも、展示解説の内容の大半が、日本で出版されている岩波新書等の定評ある新書に書かれているレベルのものです(もっとも、日本の歴史修正主義者たちはそれを「自虐史観」だなどと揶揄しますが……)。しかるに、そのようなものをナショナリズムを過剰に煽る、誇張あるいは捏造されたものだと思うというのは、やはり偏見であるといえるでしょう。「日本国民」である私も、ここでは自らの「日本国民」としての偏見が常に問われる感じでした。

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独立紀念館については、「反日施設」(そもそも、「反日」などという言葉それ自体が傲慢なものですが*1)というのもよく言われることです。日本国民曰く、このようなは「反日施設」や学校での「反日教育」によって、韓国人の日本に対する敵意や憎しみが醸成されるのだ、と。しかし、私はそれは間違いだと思います。思うに、韓国の歴史教育を受けてきた韓国の若い人たちが日本に対して抱くのは、「敵意や憎しみ」などではなく、「加害の歴史に向き合おうとしない日本の政権や国民に対する失望」でしょう。

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以上、独立紀念館が「(韓国国民の)ナショナリズム高揚のための反日施設」だというのが日本国民の偏見であることがご理解いただけたでしょうか。それでもなお、独立紀念館を「ナショナリズム高揚のための反日施設」だと言うのであれば、日本が自らの手で、国家レベルで日帝の侵略と植民地支配を反省し記憶する場を日本に設けるしかありません。否、むしろ日本は、日帝の侵略と植民地支配を反省し記憶する場を日本に設けるべきであり、それこそがまさに日本が果たすべき「責任」の一つです。

 

ヘイトアクションは、「日本の恥」だから許されないのではない。

日本の団体が台湾の慰安婦像に乱暴 国民党議員、日台交流協会前で抗議 | 政治 | 中央社フォーカス台湾

 

日本の保守団体メンバーによる、この卑劣な行為に対しては、日本でも少なからず非難の声が上がっています。しかしながら、その多くが「日本の恥である」だとか「日本を貶めるものだ」といったものであります。

たしかに、彼の卑劣な行為は、台湾のみならず国際社会の日本に対する印象を悪くするものだといえます。しかし、彼の卑劣な行為が非難に値するのは、決して「日本の恥である」だとか「日本を貶めるものだ」からではありません。彼の卑劣な行為が非難に値するのは、日本軍性奴隷被害者を侮辱し、尊厳を踏みにじるものだからです。

このことは、日本社会に蔓延するヘイトスピーチについてもいえることです。ある「保守論客」は、「ヘイトスピーチによって最も傷がつく存在とは、何を隠そう「日本」という国家の国威・イメージであり、ひいては日本国の『国益』そのものなのである」などと言い*1、このような言説に共感を覚えるリベラル人士も少なくないようです。しかし、ヘイトスピーチが許されないのは、「日本」という国家の国威・イメージを傷つけるからではありません。ヘイトスピーチが許されないのは、それが記号的存在ではない、一人ひとり違う顔を持つ生身の人間の尊厳を踏みにじるものだからです。

そもそも、ヘイトスピーチの根底にある差別観を拠り所としているのは、何を隠そう「日本」という国家です。しかるに、ヘイトスピーチによって「日本」という国家の国威・イメージが傷つけられたなどと「被害者面」するのは、まさしく「厚顔無恥」だといえます。また、「国家の国威」を理由に少数派が抑圧されてきた歴史に鑑みれば、マイノリティを踏みにじるものであるヘイトスピーチが許されない理由として「国家の国威」などというものを持ち出すのは、正しくありません。

日頃から「反ヘイトアクション」を訴えるリベラル人士が、今回の事件のようなヘイトアクションについて、開口一番「日本の恥である」だとか「日本を貶めるものだ」などと言うのは、本当に残念なことです。「反ヘイトアクション」を訴える私たちは、「ヘイトアクション」が許されないのは、それが記号的存在ではない、一人ひとり違う顔を持つ生身の人間の尊厳を踏みにじるものだからであることを、決して忘れてはなりません。今回の事件でも、私たちが真っ先に目を向けなければならないのは「日本の名誉」ではなく、「日本軍性奴隷被害者の名誉と尊厳」なのです。

「元ネット右翼」のあなたへ

「私がネトウヨになったのは、外国人の権利を主張するばかりで日本人のために権利を主張してくれない左翼のせいだ」と言う、元「ネット右翼」の人がいます。どうやら、そのような言い訳に共感し、左翼に反省を求めるリベラル人士も少なくないようです。

もちろん、左翼に反省すべき点はない、などと言うつもりはありません。しかし、それでも私は、元「ネット右翼」の人のそのような言い訳には共感できません。なぜなら、「外国人の権利を主張するばかりで日本人のために権利を主張してくれない左翼のせいだ」というのは「外国人」や「左翼」をスケープゴートにするものであって、それはまさに排外主義右翼のやり口そのものだからです。つまり、そのような言い訳をする元「ネット右翼」の人は、残念ながら未だ排外主義を克服できていないと言わざるを得ないでしょう。

「私がネトウヨになったのは、外国人の権利を主張するばかりで日本人のために権利を主張してくれない左翼のせいだ」と言い訳する元「ネット右翼」の人は、誤解しています。あなたを苛む漠然とした“恐怖”や“不安感”の原因は、「外国人」でもなければ「外国人の権利を主張するばかりで日本人のために権利を主張してくれない左翼」でもありません。どうか、あなたを苦しめる「真の原因」を見誤らないでください。

もちろん、左翼が(むしろ、左翼であればこそ)人間を切り捨ててはならないのは、言うまでもないことです。しかし、「切り捨ててはならない人間」ということに、「日本人」も「外国人」も関係ありません。そうであれば、そもそも「日本人のために」だとか「外国人のために」と考えることが間違っています。どうか誤解しないでください。左翼は「外国人」の権利を主張しているのではありません。「外国人」だからという理由で切り捨てられている人間の権利を主張しているのです。そして、人間が「外国人」だからという理由で切り捨てられているからこそ、「外国人」だからという理由で人間を切り捨てることを糾弾しているのです。

あなたが誤解していることは、まだ他にもあります。それは、左翼はあなたを救済する弁護士でも宗教家でもないということです。あなたがやるべきことは、「左翼が私を救ってくれない」と左翼を恨み「ネット右翼」となってあなたと同じように踏みつけられている人を踏みつけることではなく、あなた自身が左翼となって、あなたと同じように踏みつけられている人と共に声を上げることです。私は左翼ですが、あなたを苦しみから救うことなどできませんし、私があなたを苦しみから救ってあげましょうなどと言うのはおこがましいことです。しかし、あなたと同じように踏みつけられている私は、あなたと共に声を上げることができます。「草の根の左翼」は、あなたと同じ踏みつけられている人間なのです。

 

9月、千葉の路上で

9月1日は、日本では「防災の日」と定められています。これは、1923年9月1日に発生した関東大震災にちなんだものです。

ご存知のように、1923年9月1日に発生した関東大震災では、多くの命が奪われました。しかし、多くの命を奪ったのは、決して天災だけではありませんでした。また、多くの命を奪われたのは、決して「日本人」だけではありませんでした。関東大震災の発生直後から、被災地では「朝鮮人が暴動を起こす」旨のデマが流布され、デマに煽動された日本人によって多くの朝鮮人が殺害されたのです。

korocolor.com

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私たちは、民族虐殺という人道に反する卑劣極まりない犯罪を二度と繰り返さないためにも、この事件の記憶を継承しなければなりません。しかしながら、日本社会ではナショナリズムや排外主義が高まる昨今、この事件を矮小化したり、その存在を否定したりする言説が幅を利かせています*1。また、相変わらず大きな災害が起きるたびに民族差別を煽動するデマが流布されます(SNSがある今、その拡散力は関東大震災のときの比ではありません。)。

そこで、私はそうした風潮に抗するべく、私が暮らす千葉県にある二つの「記憶の場」を訪ねました。

一つめの「記憶の場」は、八千代市にある観音寺です。ここには、地域住民と在日コリアンによって建立された「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」、

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韓日の仏教関係者によって建立された「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊詩塔」、

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そして韓国からの募金と材料によって建立された「普化鐘楼」

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があります*2

観音寺のある高津やその周辺の村で村民による朝鮮人虐殺が起きたのには、八千代市の隣の習志野市には当時、陸軍の捕虜収容所があったという「地理的事情」がからんでいます。軍や警察当局は、朝鮮人を「自警団などの虐殺からの保護」の名目で収容したものの、「保護」したはずの朝鮮人を近隣の村に引き渡し、村民に殺害させたのです*3。つまり、高津やその周辺の村での虐殺は、単にデマに煽動された村民が憎悪にかられて行ったものではなく、軍や警察当局が村民の差別感情を利用して計画的に行ったものであるといえます。

二つめの「記憶の場」は、船橋市の馬込霊園に建立されている「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」です。

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この慰霊碑は、「南北」分断前である1947年の三一節*4 に、在日本朝鮮人聯盟によって建立されました*5

船橋で殺害された朝鮮人の多くが、現在の東武野田線の建設に従事していた朝鮮人労働者でした。

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言うまでもなく、日本が朝鮮を植民地支配しなければ、彼らは殺されることはなかったでしょう。船橋駅北口付近の天沼では、飯場から騎兵隊に連行された朝鮮人労働者50余名が自警団に殺害されました*6。一方、同じ船橋でも、丸山集落のように日本人の住民が集落で暮していた朝鮮人労働者を周辺の集落の自警団から守った集落もありました*7

関東大震災犠牲同胞慰霊碑」のある馬込霊園から3.8㎞離れた同じ船橋市の行田には、海軍無線電信所船橋送信所がありました。現在は、その跡に「船橋無線塔記念碑」が建てられています。

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海軍無線電信所船橋送信所は、一般には「真珠湾攻撃」の電文を送信したことで知られているようですが、関東大震災朝鮮人虐殺事件とも無関係ではありません。それというのも、この送信所から9月3日午前8時15分に打電された各地方長官宛内務省警保局長電文が虐殺を引き起こしたデマの大きな原因となったことに加えて、遭難信号や応援依頼の送信を繰り返して 「鮮人暴動」や「来襲」 といった打電を連送したことによってデマの拡大・伝播に大きく寄与したからです*8。しかし、「船橋無線塔記念碑」には「関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた」と書かれているだけで、そのことは一言も書かれていません。

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はたして、この記念碑はどのような「記憶」を承継するためのものなのでしょうか。たしかに、この記念碑によっても漠然と「忌まわしき戦争」に思いを馳せることはできるでしょう。しかし、関東大震災朝鮮人虐殺事件といった、軍国主義下の日本で国家と国民が犯した過ちを、私たちが二度と繰り返さないためには、やはり漠然と「忌まわしき戦争」に思いを馳せるだけでは不十分であり、軍国主義下の日本で国家と国民が犯した「加害の記憶」を承継することがぜひとも必要なのです。

「本当の保守」論について

最近、巷で「本当の保守」という言葉をよく見聞きします。それは、安倍政権の支持者よりも、むしろ「反安倍政権」の人の口からよく聞かれる言葉であると思います。

もちろん、安倍政権に対する私のスタンスは「反安倍」です。しかし、それ以前に左翼である私は、「安倍政権は『本当の保守』ではない」といった「本当の保守」論には賛同できません。

このようなことを言うと「本当の保守」論者は、左翼である私が「保守思想」を毛嫌いしているだけだと思うかもしれませんが、決してそうではありません。

そもそも、日本の「保守」が守りたいのは、日本社会の差別の根源である「天皇制」や、日本社会を貫く「排除と同化の論理」を象徴する「日の丸」といったものです。そのようなものを守ろうとする「日本の保守思想」は、「反差別」という私の信条にそぐわないものですから、私は到底受け入れることができません。もっとも、「本当の保守」論者も「本当の保守は民族差別に反対すべきである」と言います。しかし、彼らが日本社会の差別の根源である「天皇制」を否定することはないでしょう。なぜなら、天皇制を否定することは彼らにとっては自己否定なのですから。そうはいっても、やはり日本社会の差別の根源である「天皇制」を否定するのでなければ、いくら「本当の保守は民族差別に反対すべきである」と言ったところで、それは欺瞞でしかありません。

このように、「本当の保守」が日本社会の差別構造を温存するものである点だけでも、私がそれに与しない理由としては十分なのですが、もうひとつ言えば、「本当の保守」論は、例えば「(日本のアジア侵略を推し進めた)急進的な超国家主義はむしろ『革新』である」*1といったように、「革新」があたかも邪悪なイデオロギーであるかのようなレッテル貼りをする点が、なんとも悪辣です。「本当の保守」論者が好んで言う「アベ政治は保守ではなく、むしろ革新である」もそうですが、「革新」を「保守」の「ゴミ箱」にするのは、いい加減やめていただきたいものです。もし「本当の保守」というものがあるとして、そうであれば「(日本のアジア侵略を推し進めた)急進的な超国家主義」も「アベ政治」も「失敗した保守」であって、「革新」ではありません。「本当の保守」論者は、例えばソ連を「共産主義の失敗」だと言うのであれば、「保守主義の失敗」もしっかりと認めるべきでしょう。

それにしても、「本当の保守」論というのは、都合の悪いものを排除するという点で、「排除と同化の論理」を基調とする「日本保守主義」的な、あまりにも「日本保守主義」的なものであるといえます。その意味では、たしかに「本当の保守」論者こそ、「本当の保守」なのかもしれません。