葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

前エントリ「三浦瑠麗氏とフジテレビによる民族差別煽動に断固抗議する」の補足

前エントリ「三浦瑠麗氏とフジテレビによる民族差別煽動に断固抗議する」について、若干補足します。

たしかに、問題となった三浦瑠麗氏の発言それ自体は、三浦氏の「言い訳」にもあるように、民族差別煽動とは言い難いようにも思えます。

しかし、前エントリでも触れましたが、やはり朝鮮民主主義人民共和国による「日本人拉致問題」や「核・ミサイル問題」と在日コリアン牽強付会したヘイトスピーチが日本社会に蔓延している事実を看過してはなりません。まさか、「国際政治学者」であられる三浦氏と「報道機関」であるフジテレビ(『ワイドナショー』は、まがりなりにも「報道バラエティ番組」なのですから……)が、その事実について認識を欠いているはずがないでしょう。そうであれば、三浦氏の発言が在日コリアンを標的としたヘイトクライムを誘発する可能性があることも、十分に認識していたはずです。また、『ワイドナショー』が収録番組である点も重要です。すなわち、収録番組である以上、オンエアまでに三浦氏の発言の問題性を十分に検討できたはずです。しかるに、何の配慮もなく、また三浦氏も放送された自らの発言について何ら疑義を呈していないことに鑑みれば、三浦氏もフジテレビも、三浦氏の発言が在日コリアンを標的としたヘイトクライムを誘発する危険を認容していたものと考えられます。そうだとすれば、刑法学上の概念を借用して言えば、三浦氏もフジテレビも民族差別煽動の「未必の故意」があったものといえるでしょう。

もっとも、三浦氏のその後の「言い訳」フジテレビとその関連企業である産経新聞の日頃の報道姿勢に鑑みれば、もしかすると「人権感覚の欠如」ゆえにフジテレビや三浦氏は、三浦氏の発言が在日コリアンを標的としたヘイトクライムを誘発する可能性があることの認識を欠いていたのかもしれません。そうはいっても、在日コリアンを標的としたヘイトスピーチがこれだけ社会問題となり、ヘイトスピーチ対策法が制定されたことを考えると、たとえ三浦氏やフジテレビが、三浦氏の発言が在日コリアンを標的としたヘイトクライムを誘発する可能性があることの認識を欠いていたとしても、そのことについて少なくとも重大な過失があると言わざるを得ないでしょう。いずれにせよ、三浦氏は今回の発言に関して批判を免れることはできず、発言の責任を問われてしかるべきです。

ところで、三浦氏は「言い訳」の中で「このレベルの発言が難しいのであれば、この国で安全保障について議論をするのは正直、不可能」だと述べています。三浦氏は誤解していますが、もし本当に議論をするのが不可能だとしても、それは批判のせいではありません。前述したように、三浦氏の発言は、既に日本社会に蔓延しているヘイトスピーチと相俟ってヘイトクライムを誘発する危険のあるものとなるのです。つまり、「自由な議論」を阻害するのは、他でもなくヘイトスピーチだということです。

 

三浦瑠麗氏とフジテレビによる民族差別煽動に断固抗議する

三浦瑠麗氏、ワイドナショーでの発言に批判殺到 三浦氏は「うがった見方」と反論
http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/12/ruri-miura_a_23359021/

 

残念ながら、「大阪に北朝鮮のテロリスト分子が潜んでいる」という三浦瑠麗氏の発言の何が問題であるか分からない、あるいは分かろうとしない人が少なくないようです。

たしかに、「国際政治学者」を名乗る三浦氏が明確な根拠もなくこのような発言をした点は非難されてしかるべきでしょう。しかし、問題の本質は、三浦氏の発言内容の信憑性ではありません。

それでは、問題の本質はいったい何か。思うにそれは、「大阪に北朝鮮のテロリスト分子が潜んでいる」という三浦氏の発言によって、大阪で暮らしている在日コリアンが何の根拠もなく「北朝鮮のテロリスト分子」と認定されてヘイトクライムの標的とされる危険があるということです。

これに対して、「たとえ在日コリアンヘイトクライムの標的とされる危険があるとしても、北朝鮮のテロリスト分子が潜伏しているのは“事実”であり、三浦氏はその危険を警告しただけだ」という反論もあるでしょう。しかし、はたして三浦氏がワイドショー番組で「大阪に北朝鮮のテロリスト分子が潜んでいる」などということを大衆に喧伝することが、はたしてどれだけ「テロ」の抑止に役立つといえるでしょうか。三浦氏の発言は、「テロ」の抑止に役立つどころか、むしろ「北朝鮮のテロリスト分子」と大阪で暮らす在日コリアン牽強付会する差別主義者によるヘイトクライムを誘発する危険のあるものでしかないでしょう。先般、名古屋で起きた「イオ信用組合放火事件」*1や東京で起きた「駐日韓国文化院放火事件」*2といったヘイトクライムの発生に鑑みれば、根拠が不明確な「北朝鮮テロリスト分子によるテロ」などというものよりも、三浦氏の発言によって在日コリアンを標的としたヘイトクライムが発生することのほうが、よほど「いまここにある危険」であるといえます。もっとも、三浦氏は「日本の安全保障のため」だなどと言っているようですが、かつて日本では「治安維持」の名目で多くの(日帝支配下の朝鮮の)朝鮮人や(帝国日本の)在日朝鮮人が殺された、という歴史*3*4を忘れてはなりません。

このように、ワイドショー番組での三浦氏の発言自体、民族差別煽動であって許されないものですが、その後の三浦氏の「私は番組中、在日コリアンがテロリストだなんて言っていません」という言い訳も、およそ通用するものではありません。すなわち、朝鮮民主主義人民共和国による「日本人拉致問題」や「核・ミサイル問題」と在日コリアン牽強付会したヘイトスピーチが日本社会に蔓延している現実を軽視ないしは無視するものであり、つまるところ民族差別煽動を正当化するための詭弁に過ぎない、ということです。ましてや「逆にそういう見方を思いついてしまう人こそ差別主義者だと思います」という(ハフィントンポスト日本版の取材に対する三浦氏の)発言は、醜悪としか言いようがありません。

それでもまだ三浦氏の発言の何が問題であるか分からないというのであれば、たとえばもしある国のテレビ番組で「(在外日本人が多く暮らしている街である)○○では、日本の公安調査庁が我が国に放ったスパイが、某国情報局のスパイと協力して我が国の政権転覆をするべく潜伏している」などと流されたとしたら、ということを考えてみてください。おそらく日本国民は「そんなのは何の根拠もないデマだ」と抗議するでしょう。しかし、外国で公安調査庁の協力者だという日本人がスパイ容疑で当局に身柄を拘束されるという事件が起きたのも“事実”*5です。それを考えると、はたして「何の根拠もないデマだ」と言い切ることができるでしょうか……これと同じことを言っているのが、三浦氏とその擁護者なのです。そう、問題は「日本人スパイが○○に潜伏している」のが事実かどうかではありません。○○で暮らしている日本人が何の根拠もなく「スパイ」と認定されてヘイトクライムの標的とされる危険があるということこそが問題なのです。もっとも、このように「在日コリアン」を「日本人」に置き換えなければ三浦氏の発言の何が問題であるか分からないというのは、正直なところいかがなものかと思いますが……。

以上、私は本稿をもって、三浦瑠麗氏とフジテレビに断固抗議します。私は、三浦瑠麗氏とフジテレビによる民族差別煽動を絶対に許容しません。

差別主義者も「人間」だからこそ、私は断固として非難する。

「差別主義者は人間ではない」という言説を、しばしば見聞きします。

たしかに、差別は人間の尊厳を踏みにじる「反人間的な」ものですから、「差別主義者は人間ではない」と言いたくなる気持ちもわかります。しかし、差別主義者を「人間ではない」と言い切ることには、私はためらいを覚えます。

思うに、彼は「人間ではない」から、差別主義者なのではありません。むしろ彼は「自由な人間」だからこそ、差別主義者なのです。そして、差別主義者は「自由な人間」だからこそ、自己の言動について責任をとらなければならないのです。私は、差別主義者が「自由な人間」だからこそ、差別主義者を断固として非難します。

もっとも、差別主義者が「自由な人間」だからといって、彼の差別的言動を尊重しなければならないということにはなりません。つまり、差別主義者が「自由な人間」であるということと、彼の差別的言動が人間の尊厳を踏みにじる「反人間的」なものであるということは、また別の話だということです。しかるに、それらを混同して「差別主義者も自由な人間なのだから、彼の差別的言動を尊重しなければならない」などと言うのは、差別を肯定するための詭弁にほかなりません。

さて、差別主義者が「自由な人間」であり、彼を差別主義者として作り上げたのは他でもない彼自身だとしても、彼は何もないところから自らを差別主義者として作り上げたわけではありません。「状況」があったからこそ、彼は自らを差別主義者として作り上げることができたのです。そして、その「状況」を作り出したのは、紛れもなく「権力」です。この点、差別主義者が差別主義者たる所以を「民族性」に求める言説がしばしば見受けられます。しかし、それは問題の本質的構造を見誤ったものであり、また、梶村秀樹先生が指摘するように「絶望に通じていきかねない」ものです。つまり、もし差別主義者が差別主義者たる所以が「民族性」にあるならば、その民族を否定しないかぎり差別を克服することなどできないでしょう。しかし、だからといってその民族を否定するというのは、それこそ差別にほかなりません。そもそも、そのような考えは誤りであって、差別主義者を生み出すのは「民族性」といった自然現象のようなものではなく、権力によって作られた構造的な「状況」なのです。そして、それは人(権力)によって作られたものだから、私たちはそれを壊していくことができるのです。

差別主義者も「自由な人間」です。もっとも、彼が「自由な人間」であるのは、決して「傍若無人に振舞うことを許された特別な人間」だからではなく、「個人」として尊重されるからです。そして、「個人の尊重」は普遍的な価値です。そうであるならば、(彼が)差別的言動によって他者が「個人」として尊重されることを否定するというのは、彼自身が「自由な人間」である根拠を自ら失わしめるものであるといえます。その意味では、これまで述べてきたことと矛盾してしまいますが、彼が自らを差別主義者として作り上げることは、「自由な人間」であることを自らやめてしまうということなのかもしれません。

つまるところ、差別はあらゆる意味で「人間を殺す」のです。

路地裏とエロス

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私は「路地裏」を愛している。しかし、その「愛」はいささか暴力的かもしれない。

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路地裏は、決して簡単に私を受け入れようとはしない。しかし、それゆえに私は闖入したくなる。

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この路地を進んだ先には、いったい何があるのだろう?もしかすると、そこにあるのは「無」なのかもしれない。しかし、そこに何があるかなどさしたる問題ではない。私にとって大切なのは、路地裏の神秘を暴くことである。

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路地裏への闖入に成功した私は、恐怖と不安を感じると同時に、奇妙な安堵感を覚える。

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路地裏は、「愛」で私を包み、人間を殺す「暴力」から私を守ってくれる。しかし、その「愛」はいささか暴力的かもしれない。

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 それでも、私は「路地裏」を愛している。たとえ、互いに傷つけあうとしても。

日本は「日韓“慰安婦”合意」を自らの手で破棄しなければならない。

立憲主義」という言葉の意味を真に理解しているかどうかはさておき、おそらく多くの日本国民が、「日本は立憲主義国家である」ことを信じて疑わないでしょう。もちろん、私も「日本は立憲主義国家である」ことを信じて疑わない人間の一人です。

さて、「日本は立憲主義国家である」ことを信じて疑わない日本国民の中には、日本軍性奴隷問題に関する安倍首相の「(日韓“慰安婦”)合意は国と国との約束だ。韓国側には誠意をもって実行してもらいたい」という主張*1を“正論”だと思う人も少なくないでしょう。しかし、私は日本が立憲主義国家であると信じて疑わないからこそ、安倍首相の主張を詭弁としか思えません。

なぜ安倍首相の主張は詭弁であるか。思うに、それは日本が立憲主義国家であるならば、むしろ日本政府は「日韓“慰安婦”合意」を自らの手で破棄するのが理に適うからです。すなわち、日本国憲法は「個人の尊厳」を基本理念としています。そして、「人権は、人種、性、身分などの区別に関係なく、人間であることに基づいて当然に享有できる権利である」という「人権の普遍性」に鑑みれば、ここでいう「個人」とは「日本国民」に限られません。そうだとすれば、(安倍政権と当時の朴槿恵政権が)「個人の尊厳」よりも「国益」を優先したものであり、さらには日本政府が被害者の尊厳回復のための努力を拒否する口実としている「日韓“慰安婦”合意」は、日本国憲法の基本理念に反するものであるといえます。したがって、日本が立憲主義国家であるならば、日本政府は「日韓“慰安婦”合意」を自らの手で破棄しなければならないのです。

しかるに、日本政府の長である安倍首相は、日本国憲法の理念に従い「日韓“慰安婦”合意」を自らの手で破棄するどころか、「(韓国の文在寅大統領に)日本人の怒りを感じさせないといけない」などと息巻いています*2。「日本人の怒りを感じさせないといけない」などというのは、日本が加害者であることを忘れた傲慢な戯言です。安倍首相には、そのような戯言をのたまう前に、日本帝国主義に尊厳を踏みにじられている人々の怒りや悲しみをぜひとも感じていただきたいものです。

憲法9条を本当に守るために

護憲派」の中には、「憲法9条は、国民を守るためにある」と言う人がいます。たしかに、憲法9条を守ることで、国民が戦火から守られることは否定しません。しかし、それはあくまでも憲法9条を守ることで得られる派生的な効果であって、憲法9条の本質ではありません。

残念ながら、「護憲派」にも憲法9条の本質を見誤っている人が少ないないように思えてなりません。憲法9条の本質は、「日本という国に戦争をさせない」ことです。日本という国に戦争をさせないことで人権が守られることはあっても、決して「国民」を守るためのものではありません。つまり、日本国民が戦火から守られさえすれば、日本が加担する「帝国の戦争」によって他国が戦火に見舞われようとかまわないというのは、憲法9条の趣旨に悖る態度であるといえます。

もっとも、日本の「平和教育」のあり方に鑑みると、「憲法9条は、国民を守るためにある」という誤解が生じるのも致し方ないのかもしれません。なぜなら、日本の「平和教育」は、「日本(人)が被った戦争被害を通じて戦争と平和を学ぶ」ことに重点が置かれているからです。私は、決して「日本(人)が被った戦争被害を通じて戦争と平和を学ぶ」ことを否定するつもりはありませんし、「日本人」もまた戦争の被害者であったことを否定するつもりもありません。しかし、「日本」が戦争の加害者であったことは紛れもない事実であり、それこそが、なによりもまず日本国民が主体的に反省しなければならないものです。しかるに、「日本(人)が被った戦争被害を通じて戦争と平和を学ぶ」ことに重点が置かれている戦後から現在に至るまでの「平和教育」(右派は「戦後日本の平和教育」を「自虐史観」だなど批判しますが、私からしたらあの程度のものは、まだまだ「自分に甘い」ものです。だから、今になって「戦後平和国家」に綻びが出始めているのです。)は、過去の戦争での「日本の加害者性」を忘却させ、現在の戦争での「日本の加害者性」に無頓着な国民を育てる危険をはらむものであり、憲法9条の真の趣旨にかなうものとはいいがたいものです。

護憲派」の諸姉諸兄が憲法9条を本当に守ることを希求するのであれば、どうか「憲法9条のおかげで戦後日本は戦争に巻き込まれずに済んだ」という認識を改めてください。憲法9条の「現在の危機」は、単に安倍政権が誕生した結果だけではなく、「戦後『平和国家』日本」が朝鮮戦争ベトナム戦争といった「帝国の戦争」に加担し、憲法9条を蔑ろにしてきたことが積み重なった結果なのです。

もちろん、憲法9条を守るために「アベ政治を許さない」ことも大切でしょう。しかし、それだけではなく「戦後『平和国家』日本」が憲法9条があるにもかかわらず「帝国の戦争」に加担しその恩恵にあずかってきたという史実と向き合うことが、憲法9条を本当に守るために必要なことであると、私は思うのです。

日本軍性奴隷問題の真の解決のために、必要なこと。

韓国大統領、矛盾を露呈 慰安婦合意新方針、国内でも批判:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/DA3S13307453.html

 

どうして、日本政府もマスメディアも、そして国民も、韓国政府が「日韓“慰安婦”合意」の不当性を主張する一方で合意の破棄・再交渉を要求しない真意を考えようとせず、表面だけを捉えて韓国を蔑んだり憎んだりするのでしょうか。韓国・文政権は、日本という国を尊重しているからこそ、「日韓“慰安婦”合意」の不当性を主張する一方で日本政府に対して合意の破棄・再交渉を要求しないのです。すなわち、もし日本が「人間の尊厳」という価値観を共有することのできる国であるならば、他律的にではなく自律的に合意の妥当性を再考することができるであろうことを期待して、合意の破棄・再交渉を要求しないことにした、ということです。これは、「日本側が自ら真実を認め、被害者の名誉と尊厳の回復、心の傷の治癒に向けた努力を続けることを求める」という康京和外交部長官の言葉*1からも、うかがい知ることができるでしょう。

しかし、残念ながら日本は、「人間の尊厳」という価値観を共有することのできない国だったようです。なぜなら、日本政府は「被害者の名誉と尊厳の回復、心の傷の治癒に向けた努力を続けること」さえできないと言うのですから*2。韓国政府が日本政府に対して求めているのは、あくまでも「被害者の名誉と尊厳の回復のための自発的な努力」です。しかるに、それさえも日本政府は受け入れられないというのは、結局のところ「日韓“慰安婦”合意」での安倍首相の「心からのおわびと反省」も、所詮は口先だけにすぎないということです。そうだとすれば、そのような欺瞞に満ちた「合意」など、そもそも守るに値しないでしょう。

「日韓“慰安婦”合意」の不当性もさることながら、日本政府に「被害者の名誉と尊厳の回復のための自発的な努力」を求める韓国政府に対する日本政府の態度も、傲岸不遜極まりないものです*3。韓国・文政権は、日本を対等な主権国家と認識しているからこそ、日本の立場を尊重して「被害者の名誉と尊厳の回復のための自発的な努力」を日本に求めているのです。それに比べて日本政府は、「韓国が日本に要求するなど、絶対に許さない」といった感じで韓国を見下しているように思えてなりません。日本政府は、未だに韓国を属国だと勘違いしているのでしょうか。露呈したのは文在寅大統領の“矛盾”などではなく、未だに植民地主義を克服できない日本政府の体たらくです。

結局のところ、日本軍性奴隷問題を真に解決するのに必要なのは、「国家間の合意だから」と形だけにこだわって欺瞞に満ちた合意を維持することではなく、文在寅大統領の言葉の通り*4「日本が真実を認め、被害者に真の謝罪をし、それを教訓に国際社会と努力する」ことです。そして、「真の謝罪」とは、口先だけ「おわびと反省」をするのではなく、今後も日本政府が、かつての日本による戦時性犯罪の被害を隠蔽あるいは矮小化するなどといった、謝罪と矛盾した態度をとらないことです。

日本軍性奴隷問題は、日本国民一人ひとりにとっても、決して「無関係なこと」ではありません。なぜなら、日本軍性奴隷問題では、日本国民一人ひとりに対しても「人間の尊厳」という価値観を共有することができるかどうかが問われているのですから。