葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「表現規制」に関する、よくある誤解について。

右も左も極端な考え方は「表現の自由」を嫌う――前参議院議員山田太郎さん - エキサイトニュース
http://www.excite.co.jp/News/smadan/E1507102952423/

表現の自由」に関する「有識者」として知られている山田太郎氏ですが、「規制のされ方には二種類あります。ひとつは政府や行政が法律で規制するやり方。もうひとつは民間の自主規制ですね。」というように、民間企業(団体)による「自主規制」を公権力による規制と同列に扱っているのは、「表現の自由」論に対する理解が不十分であると言わざるをえません(なお、リンク先の記事中の山田氏の言説には、他にも批判されてしかるべき点がいくつかありますが、本稿では一点に絞って批判します。)。

表現の自由」論は、あくまでも憲法学上の議論ですから、「憲法は私人と国家の関係を規律するものである」という原理原則をおさえる必要があります。そうして、山田氏の言う「萎縮効果」論について考えてみますと、いわゆる「萎縮効果」論は、公権力による規制が「広汎」あるいは「曖昧」であるがゆえに、表現者が本来適法に行いうるはずの表現行為を差し控えてしまう、というものです。しかるに、山田氏は出版社等の萎縮の「原因」である公権力による規制が「広汎」あるいは「曖昧」であることを問題とせず、「結果」である出版社等の萎縮そのものを、あたかも公権力による規制を代替するものであるかのように論じている点は、論理が飛躍しているといえます。つまり、「憲法は私人と国家の関係を規律するものである」という原理原則からすれば、「萎縮効果」論で問われるべきは公権力による「広汎」あるいは「曖昧」な規制であり、公権力による「広汎」あるいは「曖昧」な規制に萎縮して本来適法に行いうるはずの表現行為を差し控えてしまう出版社等はいわば「被害者」であって、それをあたかも公権力の「共犯者」であるかのように捉えるのは、的確ではありません(ただ、もちろん出版社等の「自主規制」を批判することも「表現の自由」です。そうはいっても、やはり出版社等の「自主規制」と公権力による規制を同列に扱うのは妥当でないことを明確にしておくべきです。)。

もっとも、出版社等の社会的影響力の大きさに鑑みれば、憲法規定を私人間に適用する(いかなる形で適用するかには争いがありますが、民法等私法の一般条項の解釈を通じて間接的に適用しようとする「間接適用説」が判例・通説です。)「私人間効力」について論ずる余地はあるでしょう。しかし、その場合も国家(公権力)とは異なり、作家等の「表現の自由」に対立する出版社等の権利・自由を考慮する必要がありますから、出版社等の「自主規制」を公権力による規制と同一視することはできません。

山田氏は、「文句やクレームも表現の一種」だと言います。私も、その点に関しては山田氏と同意見です。しかし、そうであれば出版社等にも「自由」はあるのですから、そのような「文句やクレーム」を出版社等が吟味し、熟考したうえで自らの意思によって出版等を差し控えるのも、作家等の表現の自由と同様に尊重すべきである出版社等の「自由」ではないでしょうか。「自由」とは、決して「無思慮」ではありません。

もちろん、個人と企業(団体)の「力関係」は看過すべきではないと思います。ですが、そもそも「文句やクレーム」が作家の表現行為に向けられているものであることに鑑みれば、なによりもまず作家自身が「文句やクレーム」を吟味し、熟考して自らの表現行為についての態度を決めることこそが、作家の表現の自由にとって大切なのではないでしょうか。繰り返しますが、「自由」とは、決して「無思慮」ではありません。

私も「オタク」の端くれですから、漫画やアニメに対する公権力による不当な制限には反対です。そしてまた、「エロティックな表現」も「表現の自由」を支える価値である自己実現の価値に資するものであり、人間の尊厳を踏みにじるものでないかぎりその自由が保障されるべきであると私は考えますから、いわれのない批判には反論する所存です。しかし、本当に「表現の自由」を守るというのであれば、やはり「表現の自由」論の原理原則を踏まえた議論をする必要があると、私は思います。

 

在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めることは「外国人参政権の実現」ではない。「完全な民主主義の実現」である。

「民主主義」は、「治者と被治者の自同性(治める者と治められる者が同一である)」をその本質とします(よく言われる「民主主義の本質は多数決である」というのは誤解です。)。そうだとすると、「日本」という国は、はたして「完全な民主主義国家」であるといえるのでしょうか。それというのも、「日本」という国では、被治者であるとして「日本国民」と全く同じ義務を負わされているにもかかわらず、治者ではないとして「民主主義」のプロセスから疎外されている人々――在日コリアンや在日台湾人が存在するからです。

いわゆる「日本における外国人参政権」の議論において、「大日本帝国時代に『日本国民』であった在日コリアンや在日台湾人の『日本国籍』を、敗戦後に日本政府が一方的に剥奪したのであるから、在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めるべきだ」ということが、よく言われます。私も、在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めるべきであると考えます。ですが、「在日コリアンや在日台湾人の『日本国籍』を、敗戦後に日本政府が一方的に剥奪したから」認めるべきだというのは、私は違うと思います。もちろん、「在日コリアンや在日台湾人の『日本国籍』を、一方的に剥奪した」責任は日本政府にあるでしょう。しかし、その点を強調することには、「排除の論理」と対を成す「同化の論理」を肯定する危うさがあります。そしてなにより、そもそも被治者として「日本国民」と全く同じ義務を負わされている在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めることは、「治者と被治者の自同性」という「民主主義の本質」から本質から要請されるものです。決して、日本政府の「罪滅ぼし」として在日コリアンや在日台湾人に与えるべきもの、などではありません。

こうしてみると、「日本における外国人参政権」という議論そのものが、いささか不正確であることが分かるでしょう。在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めることは、「外国人参政権の実現」ではなく、「完全な民主主義の実現」に他なりません。つまりは、在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めることで、はじめて「日本」という国は「完全な民主主義国家」であるといえるのです。

再び言おう、「平和の少女像排除問題」は「表現の自由」の問題である。

以前のエントリ*1で、私は「『日本政府による平和の少女像撤去要求問題』は、『表現規制問題』である」旨のことを書きました。その後、現在までの日本政府の「平和の少女像」に関する態度を見るに、やはり「日本政府による平和の少女像撤去要求問題」は、いわゆる「表現規制問題」と相通ずるものがあるといえます。

「エロティックな表現」について、私はそれも「表現の自由」を支える価値である「自己実現」に資するものであり、「表現の自由」として保障されるべきであると考えています。ですから、「エロティックな表現」も、他者の人権を侵害しないのであれば、不快であるとか風紀を乱すといった理由で不当に制限されるべきではないという見解に賛同します。

そうだとして、はたして「平和の少女像」という表現物が、いったい誰の人権を侵害するというのでしょうか。日本政府は、在釜山日本国総領事館裏の「平和の少女像」に関しては、「公館の安寧・威厳」が侵害されることを理由に「平和の少女像」の排除を主張しています。ですが、先日のエントリでも書きましたように*2、日本政府のその主張は不当な言いがかりにすぎません。また、日本政府は、韓国政府が国立墓地に日本軍性奴隷被害者の追悼碑を設置することに関しても「日韓合意に反する」と横槍を入れていますが*3、そもそも「日韓合意」には「日本軍性奴隷被害者を追悼してはならない」などという取り決めはないのですから、これも苦し紛れの言い訳でしかありません。そうして、こうした日本政府の態度に鑑みれば、結局のところ日本政府は、「平和の少女像」や「日本軍性奴隷被害者追悼碑」が不快だから、あるいは「日本という国の威厳」を傷つけられるから(そもそも、戦時性暴力を正当化することで守られる「国の威厳」とは、いったい何なのでしょうか。人権は、「国」よりも前にあるものです)、「平和の少女像」や「日本軍性奴隷被害者追悼碑」をこの世界から排除したい、ということなのでしょう。そうだとすれば、私のような「エロティックな表現」について「他者の人権を侵害しないのであれば、不快であるとか風紀を乱すといった理由で不当に制限されるべきではない」と考える者は、「平和の少女像」という表現物に関しても、誰の人権を侵害するものでもない以上、不快だから、あるいは「日本という国の威厳」を傷つけられるからといった理由で不当に排除されるべきではないと考えるのが、首尾一貫した態度であるといえます。

もっとも、「日本国民」の中には、「『平和の少女像』は、『日本人の名誉』という、『日本人』である私の人権を傷つけるものだ」と言う人がいるかもしれません。ですが、戦時性暴力を正当化することで守られるような「名誉」が、はたして「日本人の名誉」という、「日本人」である個人の人権であるといえるでしょうか。もし「日本人」であるあなたが本当にそう思っているのなら、その認識は改めるべきです。なぜなら、戦時性暴力という国家による人権蹂躙を糾すことは、「日本人」であるあなたという個人の尊厳を傷つけるどころか、むしろあなたという個人の尊厳に資するものなのですから。

私が「日本国民」に問いたいこと

「日本」という「国」で生まれ、「日本」という「国」で生きてきた一人の人間として、私は「日本国民」に問いたいことがあります。それは、「日本」という「国」を、「日本人」だけではなく、全ての人が一人の尊厳ある人間として生きることのできる場所にしたいとは思わないのでしょうか、ということです。

もしかすると、「ここは日本、日本人のための国だ」と言う「日本国民」は、少なくないかもしれません。たしかに、この場所は「日本」という「国」です。しかし、この場所を「日本」という「国」たらしめているのは権力、つまりは人の手によるものです。そうであるならば、この場所の意味など人の手によっていくらでも書き換えることができるのであり、「日本」というこの場所が「日本人のための国」であることなどなんら絶対的なものではないはずです。しかるに、「日本」という「国」を、「日本人」だけが尊厳をもって生きることのできる場所だと考えるのであれば、それは差別にほかなりません。

本当は「国を誇る」などということは言いたくないのですが、それでもあえて言えば、「日本」という「国」が、「日本人」だけではなく、全ての人が一人の尊厳ある人間として生きることのできる場所となったとき、はじめて私は、私が生まれ、そして生きてきた「日本」という「国」を誇らしく思うことができるでしょう。もっとも、私が「日本」という「国」を誇らしく思うとき、その「国」という言葉には、「私たちが共に生きる場所」以上の意味はありません。

ただ、もしかすると「ここは日本、ゆえに日本というこの場所で共に生きたいのであれば、日本のしきたりに従うべきだ」と考える「日本人」もいるかもしれません。ですが、「日本」が「民主主義国家」だというのであれば、そのような考えは間違いです。なぜならば、「共に生きるためのルール」を、「日本人」であるか否かを問わず、一人ひとりが対等な資格で話し合いによって決めるのが「民主主義国家」のあるべき姿なのですから。そうしてみると、今の「日本」という国は、はたして完全な「民主主義国家」であるといえるのでしょうか。

釜山の「平和の少女」は、静かに、だが力強く佇む。

先般、韓国の釜山を旅した私は、日本では「従軍慰安婦像」と呼称される、「平和の少女」を訪ねました。

日本では、釜山の「平和の少女」は、 在釜山日本国総領事館「前」に設置されていると、マスメディアで報じられています。

ですので、まず私は、在釜山日本国総領事館の正門前に向かいました。

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しかし、 在釜山日本国総領事館「前」に設置されているという日本での報道とは異なり、そこには「平和の少女」の姿はありませんでした。

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そこで、私は在釜山日本国総領事館の裏手へ移動しました。

すると、一般来館者が利用することはないであろう裏門からいくらか離れた場所で、「平和の少女」は、静かに、だが力強く佇んでいました。

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(なお、釜山の「平和の少女」像の正確な位置については、韓国の大学講師でいらっしゃる吉方べきさんのブログの記事が詳しいです。)

www.atosaki.com

こうして、実際に現地を訪れてみると、「平和の少女」が「領事機関の安寧を妨害し,威厳を侵害するものであって、ウィーン条約に違反する」などという日本政府の言い分は、いかに馬鹿げたものかがよく分かります。

戦時性暴力被害者の「人間としての尊厳」の回復を訴えることで損なわれる「日本の領事機関の威厳」とは、いったい何なのでしょうか。その「日本の領事機関の威厳」とやらは、はたして戦時性暴力被害者の「人間としての尊厳」に勝るものなのでしょうか。

日本政府は、「平和の少女」の、その静かだが力強い眼差しで見つめられることで疚しさを感じるのであれば、「平和の少女」に対して強権的に威嚇するのではなく、己のその疚しさがいったい何なのかと自問すべきでしょう。

もし、日本政府がどうしても「平和の少女」に、在釜山日本国総領事館「裏」から立ち去ってもらいたいのであれば、良い方法があります。それは、日本政府が、かつての植民地支配とその下での戦時性暴力を正当化することをやめ、誠意をもって謝罪し、そして謝罪と矛盾した態度をとらないことです。もっとも、それはすでに「平和の少女」が、幾度となく日本政府に対して訴えかけてきたことなのですが……。

 

 

「昔と比べて、日本社会における民族差別はずいぶん緩和された」という言い訳

就職差別の緩和や地方公務員採用の国籍条項撤廃などをを例に挙げて、「昔と比べて、日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」と言う人がしばしば見受けられます。

たしかに、「昔と比べて」日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和されたというのは、あながち間違いではないでしょう。

ですが、それは決して自然と緩和されたものでもなければ、「日本社会」が自発的に差別解消に取り組んだ結果のものでもありません。つまり、在日コリアンが、一人の人間として生まれた以上当然に有する権利を求め訴え続けたからこそ、「昔と比べて」日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和されたのです。

そうだとすれば、「昔と比べて、日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」という「事実」を、日本国民が「現代日本社会の寛容性」を誇示し、あるいは差別解消を訴える在日コリアンに対して慰めの言葉として援用することは、やはり厳に慎むべきであると、私は(あえてこのような言い方をしますが)特権者たる「日本国民」の一人として思います。

そもそも、「日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」というのは、あくまでも「昔と比べて」のことであって、依然として日本社会には在日コリアン差別が根強く残存しています。しかるに、「昔と比べて、日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」という「事実」を、日本国民が「現代日本社会の寛容性」を誇示し、あるいは差別解消を訴える在日コリアンに対して慰めの言葉として援用するならば、未だ残る差別を隠蔽し忘却する恐れがあります。

もちろん、差別解消を訴え続けた在日コリアンを支援し、あるいは彼らの声に触発され差別解消に取り組んだ日本国民がいたのも事実です。ですが、もし在日コリアンが声を上げなかったとしても、はたして日本国民は自発的に差別解消に取り組んだでしょうか。それに、差別解消を訴え続けた在日コリアンを日本国民が支援した結果として「昔と比べて、日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」ということは、未だ根強く残存する在日コリアン差別に関しては、何の言い訳にもなりません。当時、在日コリアンの訴えをきっかけに差別解消に取り組んだ日本国民も、決してそのような言い訳を作るために差別解消に取り組んだのではないでしょう。

「昔と比べて、日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」ということは、未だ根強く残存する在日コリアン差別に関しては、何の言い訳にもなりません。今、私たちがすべきこと、それは、「昔と比べて、日本社会における民族差別はずいぶん緩和された」などと言い訳することではなく、今、目の前にある民族差別の解消に自発的に取り組むことです。

 

「どんな言動がヘイトスピーチなのか分からない」という前に

「どんな言動がヘイトスピーチに該当するかなど分からない。いったい誰が、どんな言動をヘイトスピーチだと決めるのか」と言う人がいます。たしかに、ヘイトスピーチを規制する法令における「ヘイトスピーチ」の定義が明確性を欠くものであれば、「萎縮効果」を生じるのはその通りです。しかし、だからといって、「ヘイトスピーチをする自由がある」という考えには、私は到底賛同できません。

「どんな言動がヘイトスピーチに該当するかなど分からな」くても、どんな言動が他者の尊厳を傷つけるか想像することはできますよね。自らの言動が他者の尊厳を傷つけるものであるかどうか、誰よりも先ずそれを決めるのは私自身であり、あなた自身です。それこそが、「自由」ではないでしょうか。

「どんな言動が他者の尊厳を傷つけるものであるかなど分からない」というのは、言い訳に過ぎません。「どんな言動が他者の尊厳を傷つけるものである」か、私たちは、歴史から、他者の過ちから、そして自らの過ちから「学ぶ」(誤解のないようにお断りしておきますが、ここで私が言いたい「学ぶ」とは、ある種の「能力」を必要とするものではありません)ことができるはずです。しかるに、「学ぶ」ことを怠り、他者の尊厳を平気で傷つけるような言動をとり続けるのであれば、「表現の自由の擁護」にかこつけて差別を温存したいだけであると思われても仕方ないでしょう。

誤解のないよう念のため言いますが、私は「ヘイトスピーチの定義」云々という、ヘイトスピーチが法規制される段階での話をしたいのではありません。私がしているのは、それよりも前の段階の話です。

公権力によってヘイトスピーチの定義を決められる前に、どんな言動が他者の尊厳を傷つけるか想像し、どんな言動が他者の尊厳を傷つけないか自ら決める。それこそが、「表現の自由」を守りたい私たちが、なによりもまずしなければならないことであると、私は思います。