葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

私が「日本国民」に問いたいこと

「日本」という「国」で生まれ、「日本」という「国」で生きてきた一人の人間として、私は「日本国民」に問いたいことがあります。それは、「日本」という「国」を、「日本人」だけではなく、全ての人が一人の尊厳ある人間として生きることのできる場所にしたいとは思わないのでしょうか、ということです。

もしかすると、「ここは日本、日本人のための国だ」と言う「日本国民」は、少なくないかもしれません。たしかに、この場所は「日本」という「国」です。しかし、この場所を「日本」という「国」たらしめているのは権力、つまりは人の手によるものです。そうであるならば、この場所の意味など人の手によっていくらでも書き換えることができるのであり、「日本」というこの場所が「日本人のための国」であることなどなんら絶対的なものではないはずです。しかるに、「日本」という「国」を、「日本人」だけが尊厳をもって生きることのできる場所だと考えるのであれば、それは差別にほかなりません。

本当は「国を誇る」などということは言いたくないのですが、それでもあえて言えば、「日本」という「国」が、「日本人」だけではなく、全ての人が一人の尊厳ある人間として生きることのできる場所となったとき、はじめて私は、私が生まれ、そして生きてきた「日本」という「国」を誇らしく思うことができるでしょう。もっとも、私が「日本」という「国」を誇らしく思うとき、その「国」という言葉には、「私たちが共に生きる場所」以上の意味はありません。

ただ、もしかすると「ここは日本、ゆえに日本というこの場所で共に生きたいのであれば、日本のしきたりに従うべきだ」と考える「日本人」もいるかもしれません。ですが、「日本」が「民主主義国家」だというのであれば、そのような考えは間違いです。なぜならば、「共に生きるためのルール」を、「日本人」であるか否かを問わず、一人ひとりが対等な資格で話し合いによって決めるのが「民主主義国家」のあるべき姿なのですから。そうしてみると、今の「日本」という国は、はたして完全な「民主主義国家」であるといえるのでしょうか。

釜山の「平和の少女」は、静かに、だが力強く佇む。

先般、韓国の釜山を旅した私は、日本では「従軍慰安婦像」と呼称される、「平和の少女」を訪ねました。

日本では、釜山の「平和の少女」は、 在釜山日本国総領事館「前」に設置されていると、マスメディアで報じられています。

ですので、まず私は、在釜山日本国総領事館の正門前に向かいました。

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しかし、 在釜山日本国総領事館「前」に設置されているという日本での報道とは異なり、そこには「平和の少女」の姿はありませんでした。

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そこで、私は在釜山日本国総領事館の裏手へ移動しました。

すると、一般来館者が利用することはないであろう裏門からいくらか離れた場所で、「平和の少女」は、静かに、だが力強く佇んでいました。

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(なお、釜山の「平和の少女」像の正確な位置については、韓国の大学講師でいらっしゃる吉方べきさんのブログの記事が詳しいです。)

www.atosaki.com

こうして、実際に現地を訪れてみると、「平和の少女」が「領事機関の安寧を妨害し,威厳を侵害するものであって、ウィーン条約に違反する」などという日本政府の言い分は、いかに馬鹿げたものかがよく分かります。

戦時性暴力被害者の「人間としての尊厳」の回復を訴えることで損なわれる「日本の領事機関の威厳」とは、いったい何なのでしょうか。その「日本の領事機関の威厳」とやらは、はたして戦時性暴力被害者の「人間としての尊厳」に勝るものなのでしょうか。

日本政府は、「平和の少女」の、その静かだが力強い眼差しで見つめられることで疚しさを感じるのであれば、「平和の少女」に対して強権的に威嚇するのではなく、己のその疚しさがいったい何なのかと自問すべきでしょう。

もし、日本政府がどうしても「平和の少女」に、在釜山日本国総領事館「裏」から立ち去ってもらいたいのであれば、良い方法があります。それは、日本政府が、かつての植民地支配とその下での戦時性暴力を正当化することをやめ、誠意をもって謝罪し、そして謝罪と矛盾した態度をとらないことです。もっとも、それはすでに「平和の少女」が、幾度となく日本政府に対して訴えかけてきたことなのですが……。

 

 

「昔と比べて、日本社会における民族差別はずいぶん緩和された」という言い訳

就職差別の緩和や地方公務員採用の国籍条項撤廃などをを例に挙げて、「昔と比べて、日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」と言う人がしばしば見受けられます。

たしかに、「昔と比べて」日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和されたというのは、あながち間違いではないでしょう。

ですが、それは決して自然と緩和されたものでもなければ、「日本社会」が自発的に差別解消に取り組んだ結果のものでもありません。つまり、在日コリアンが、一人の人間として生まれた以上当然に有する権利を求め訴え続けたからこそ、「昔と比べて」日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和されたのです。

そうだとすれば、「昔と比べて、日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」という「事実」を、日本国民が「現代日本社会の寛容性」を誇示し、あるいは差別解消を訴える在日コリアンに対して慰めの言葉として援用することは、やはり厳に慎むべきであると、私は(あえてこのような言い方をしますが)特権者たる「日本国民」の一人として思います。

そもそも、「日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」というのは、あくまでも「昔と比べて」のことであって、依然として日本社会には在日コリアン差別が根強く残存しています。しかるに、「昔と比べて、日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」という「事実」を、日本国民が「現代日本社会の寛容性」を誇示し、あるいは差別解消を訴える在日コリアンに対して慰めの言葉として援用するならば、未だ残る差別を隠蔽し忘却する恐れがあります。

もちろん、差別解消を訴え続けた在日コリアンを支援し、あるいは彼らの声に触発され差別解消に取り組んだ日本国民がいたのも事実です。ですが、もし在日コリアンが声を上げなかったとしても、はたして日本国民は自発的に差別解消に取り組んだでしょうか。それに、差別解消を訴え続けた在日コリアンを日本国民が支援した結果として「昔と比べて、日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」ということは、未だ根強く残存する在日コリアン差別に関しては、何の言い訳にもなりません。当時、在日コリアンの訴えをきっかけに差別解消に取り組んだ日本国民も、決してそのような言い訳を作るために差別解消に取り組んだのではないでしょう。

「昔と比べて、日本社会における在日コリアン差別はずいぶん緩和された」ということは、未だ根強く残存する在日コリアン差別に関しては、何の言い訳にもなりません。今、私たちがすべきこと、それは、「昔と比べて、日本社会における民族差別はずいぶん緩和された」などと言い訳することではなく、今、目の前にある民族差別の解消に自発的に取り組むことです。

 

「どんな言動がヘイトスピーチなのか分からない」という前に

「どんな言動がヘイトスピーチに該当するかなど分からない。いったい誰が、どんな言動をヘイトスピーチだと決めるのか」と言う人がいます。たしかに、ヘイトスピーチを規制する法令における「ヘイトスピーチ」の定義が明確性を欠くものであれば、「萎縮効果」を生じるのはその通りです。しかし、だからといって、「ヘイトスピーチをする自由がある」という考えには、私は到底賛同できません。

「どんな言動がヘイトスピーチに該当するかなど分からな」くても、どんな言動が他者の尊厳を傷つけるか想像することはできますよね。自らの言動が他者の尊厳を傷つけるものであるかどうか、誰よりも先ずそれを決めるのは私自身であり、あなた自身です。それこそが、「自由」ではないでしょうか。

「どんな言動が他者の尊厳を傷つけるものであるかなど分からない」というのは、言い訳に過ぎません。「どんな言動が他者の尊厳を傷つけるものである」か、私たちは、歴史から、他者の過ちから、そして自らの過ちから「学ぶ」(誤解のないようにお断りしておきますが、ここで私が言いたい「学ぶ」とは、ある種の「能力」を必要とするものではありません)ことができるはずです。しかるに、「学ぶ」ことを怠り、他者の尊厳を平気で傷つけるような言動をとり続けるのであれば、「表現の自由の擁護」にかこつけて差別を温存したいだけであると思われても仕方ないでしょう。

誤解のないよう念のため言いますが、私は「ヘイトスピーチの定義」云々という、ヘイトスピーチが法規制される段階での話をしたいのではありません。私がしているのは、それよりも前の段階の話です。

公権力によってヘイトスピーチの定義を決められる前に、どんな言動が他者の尊厳を傷つけるか想像し、どんな言動が他者の尊厳を傷つけないか自ら決める。それこそが、「表現の自由」を守りたい私たちが、なによりもまずしなければならないことであると、私は思います。

「多様性の尊重」は、「個人の尊厳の否定」を肯定しない。

昨今、「多様性の尊重」ということがしきりに言われています。もちろん、私も「多様性の尊重」に異論はありません。しかし、「多様性の尊重」ゆえに、いかなる主義主張であっても許容すべきだという考えには、私は賛同できません。

思うに、「多様性の尊重」の趣旨は、個人の尊厳を確保することにあります。しかるに、個人の尊厳を否定するような主義主張であっても「多様性の尊重」ゆえに許容すべきだと考えることは、いわば「多様性の尊重」の“自殺行為”であり、「多様性の尊重」の趣旨にもとるものだといえます。そうだとすれば、言うまでもなく人種・民族差別や性差別を肯定する主義主張が「多様性の尊重」によって許容されることはありませんし、戦争犯罪や植民地支配による個人の尊厳の蹂躙を正当化ないし美化するような主義主張も、「多様性の尊重」の趣旨にもとるものですから、それらが許容されることはありません。

「多様性の尊重」は、なによりもまず自らと異なる「他者」を「尊重」することであり、単に「他者」に干渉しなければよいということではないと、私は思います。たとえ「他者」に干渉しないとしても、「他者」に対して「侮蔑のまなざし」を向けるのであれば、それは決して「多様性の尊重」であるとはいえないでしょう。

「日本人なのに殺された」という言葉の違和感

関東大震災直後の朝鮮人虐殺に関して、しばしば方言話者等が朝鮮人と間違われて殺された話が語られます。もちろん、そのような話の趣旨が「ジェノサイドにおいては民族を問わず殺される」というものであることに、私も異論はありません。しかし、日本国民がその話を語るときの「日本人“なのに”殺された」という言葉に、私はどうしても違和感を覚えてしまいます。

たしかに、客観的事実としては、朝鮮人と間違われて殺されたのは日本人でしょう。しかし、「ジェノサイドにおいては民族を問わず殺される」ということが言いたいのであれば、「日本人“なのに”」とは言わずに「朝鮮人であるかどうかに関係なく」と言えば足りるはずです。しかるに、あえて「日本人“なのに”」と言う意義はどこにあるでしょうか。こんなことを言うと、聡明な方から「過剰反応だ」とのお叱りを受けるかもしれませんが、「日本人であっても被害者になる可能性があるからこそ、ジェノサイドは恐ろしい」という「日本人本位」な意識が「日本人“なのに”殺された」という言葉の影に見え隠れするように思えてなりません。もっとも、「ここは日本、日本人の国なのだから、日本人本位で何が悪いんだ!」とさらにお叱りを受けるかもしれませんが……。

もちろん、「日本人“なのに”殺された」と語る日本国民が皆「日本人であっても被害者になる可能性があるからこそ、ジェノサイドは恐ろしい」と考えているなどと言うつもりはありませんし、「日本人が朝鮮人と間違われて殺された話」を日本国民が語ってはならないなどと言うつもりもありません。しかし、ともすれば「ジェノサイドが恐ろしいのは、日本人であっても被害者になる可能性があるからだ」と「日本人本位」に陥り、「レイシズムによる虐殺」であることの本質を希薄化する危うさを持った言葉であることは、やはり否定できないと思います。それゆえ、日本国民は、朝鮮人虐殺に関して「日本人が朝鮮人と間違われて殺された話」を語るときには、その「危うさ」を自覚し、「日本人本位」に陥っていないか厳しく自問する必要があるのではないでしょうか。

そもそも、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」は、対象者が朝鮮人という民族的属性を持つゆえに殺されるものであり、虐殺者が朝鮮人という民族的属性を持つ人を対象として殺すからこそ、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」であるのです。そして、この「犯罪」は、日本人が殺される可能性の有無にかかわりなく成立するものです。そうだとすれば、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」において「日本人であっても殺される」というのは、やはり「レイシズムによる朝鮮人虐殺」の本質ではないと思います。

レイシズムによる虐殺」という概念は普遍的なものですから、いかなる民族もその対象となりうるのであり、それに関してはもちろん日本人も例外でありません。しかし、そうだからといって、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」についてについて論じる場合には、対象が朝鮮人であるという特殊性を看過してはなりません。そうでないと、むしろ虐殺が「レイシズムによる」ものである点が希薄化されてしまうのではないかと思います。

もっとも、私が本当に言いたいのは「レイシズムによる朝鮮人虐殺」の本質云々ではありません。

たしかに、日本国民に対して「レイシズムによる朝鮮人虐殺」の恐ろしさを訴える上で「ジェノサイドが恐ろしいのは、日本人であっても殺される可能性があるからだ」と言うのは効果的かもしれません。ですが、そのように「日本人であっても殺される可能性」を強調しなければ「レイシズムによる朝鮮人虐殺」の恐ろしさを日本国民に対して効果的に伝えることができないのならば、私は絶望感を覚えます。

日本人であっても殺される可能性があろうとなかろうと、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」は絶対に許されないものです。しかるに、日本国民は自らが被害者になりうることを知らなければ、「レイシズムによる朝鮮人虐殺」が絶対に許されないものであることが分からないのでしょうか。
もちろん、私は「自らの痛み」によって「他者の痛み」を知ることを否定するつもりはありません。しかし、「自らの痛み」を重視するあまり「他者の痛み」に鈍感になり、自らが痛まなければいくら他者が痛もうと構わない、となってしまうことを危惧します。残念ながら、自らが痛まなければいくら他者が痛もうと構わない、それどころか自らが痛まないために他者を平気で痛めつけるというのが、「戦後平和国家ニッポン」なのですから。

「平和の少女像」が日本国民に問うていること

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日本では「慰安婦像」などという名前で呼ばれる「平和の少女像」について、これを「反日の象徴」だなどと忌み嫌う日本国民は少なくないのではないかと思います。

おそらく、日本国民は日本軍による戦時性暴力に関して自分が責められていると感じるゆえに、「平和の少女像」を「反日の象徴」だなどと忌み嫌うのでしょう。そもそも、「平和の少女像」を「反日の象徴」だなどと捉えるのが間違いですし、「日本という国に対する批判」を「自分に対する批判」と捉えるのも如何なものかと思いますが、それはともかく、「平和の少女像」を「反日の象徴」だなどと忌み嫌う日本国民は、残念ながら「平和の少女像」が日本国民に対して問いかけるその「声」を、まるで聞こうとしていないのではないでしょうか。

思うに、「平和の少女像」は、日本軍による戦時性暴力に関し、今現在の日本国民に対して非難を加えているのではありません。「平和の少女像」が今現在の日本国民に問うているのは、今まさに日本国民が植民地支配や戦時性暴力を否定する価値観を共有することができるかどうか、です。もっとも、前述したように「平和の少女像」を「反日の象徴」だなどと忌み嫌う日本国民は、そもそも「平和の少女像」が日本国民に対して問いかけるその「声」を聞こうとしていないのでしょうが、もし「声」を聞いたとして、日本国民は植民地支配や戦時性暴力を否定する価値観を共有することができないのでしょうか。日本国民は、今もこれからも植民地支配や戦時性暴力を肯定する価値観を持ち続けるのでしょうか。

日本国民(もちろん、私自身もその例外ではありません。)は、「周囲の雑音」に惑わされることなく、ぜひとも「平和の少女像」が問いかけるその「声」に、しっかりと耳を傾けるべきです。そして、「平和の少女像」の問いかけに真摯に答え、植民地支配や戦時性暴力を否定する価値観を共有するべきです。それこそが、今を生きる日本国民が植民地支配や戦時性暴力の被害者に対して果たすべき「責任」であり(もちろん、日本政府が植民地支配や戦時性暴力の被害者に対して果たすべき責任は、これとはまた別のものです。)、「平和の少女像」の「願い」なのだと、私は思います。