葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

5.18民主化運動の現場である、光州を旅しました。

過日、私は韓国の民主化にとって重要な意味を持つ「5.18民主化運動」の現場である、光州を旅しました。

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私はこの旅を、光州駅前広場から始めました。1980年5月18日朝、全南大学の校門前で軍空挺部隊に蹴散らされた学生たちは、ここ光州駅前広場で隊列を整え、錦南路を市民の拠点となる全羅南道庁へと向けてデモ行進しました。また、ここは20日夜の戒厳軍の発砲によって市民2名が命を落とした場所でもあります。

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恥ずかしながら私は、5.18民主化運動については、岩波新書の「韓国現代史」の該当部分を読んで得た、概要程度の知識しか持ち合わせていませんでした。そこで、5.18民主化運動について学ぶ第一歩として、私は5.18民主化運動記録館を訪れました。

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民主化運動記録館に入館し、展示室を見学しているうちに、私は震えが止まらなくなりました。そして、自然と涙がこみ上げてきました。どうして、あの時の光州市民は、人間として当然に有する市民的自由を守るために、人間として当然に有する抵抗する権利を行使しただけで、人間であることを否定されなければならなかったのでしょうか?

史料として展示されている戒厳布告文には、日本で生きる私たちもしばしば見聞する「国家の安全保障と公共の安寧秩序を維持するために……」という文字が並んでいました。人間を殺すことを正当化する「公共の安寧秩序の維持」とは、いったい何でしょうか?人間を殺すことを正当化する「国家の安全保障」とは、いったい何でしょうか?「国家」とは、いったい何のためにあるのでしょうか?

あの日、光州で起きた事件は、もちろんそれ自体が凄惨で恐ろしいものです。ですが、「事件の凄惨さ」以上に私を戦慄させることがあります。それは、もし私があの日あの場所にいたのなら、もし日本で同様の状況が生じたとしたら、はたして私は「殺す側」の人間だろうか、それとも「殺される側」の人間だろうか、ということです。

もしかすると私のような日本からの見学者は、民主化運動記録館を見学しても、「5.18」をどこか「過去に外国で起きた不幸な出来事」のように受け取ってしまうかもしれません。ですが、「5.18」は、決して過去の出来事でもなければ、日本で生まれ、日本で生きている私たちと無関係な出来事でもありません。もし日本の市民が「5.18」を「過去に外国で起きた不幸な出来事」としか捉えられないとすれば、それはむしろ日本の市民にとって不幸なことです。

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5.18民主化運動記録館を見学後、私はすぐ近くにある、2万人以上の市民と学生による「民族民主化大集会」が開かれた、噴水台のある「5.18民主広場」を訪れました。一人ひとりが政治の主人公である民主主義において、広場は、一人ひとりが自らの意思を表明する場として重要な意味を持つものであることは、言うまでもありません。

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広場の最寄り駅である地下鉄・文化殿堂駅の構内には、「民族民主化大集会」の写真パネルが展示されていました。

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「5.18民主広場」は、戒厳軍に抵抗する市民たちの拠点となった旧全羅南道庁の前に位置します。1980年5月27日午前5時10分、道庁は戒厳軍に占拠され、市民たちの「解放区」は弾圧されてしまいました。

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全羅南道庁のすぐ近くには、戒厳軍に殺害された市民の遺体が一時安置された尚武館があります。光州5.18民主化運動を題材としたハン・ガンさんの「少年が来る」を読まれた方にとって、この施設は馴染み深いのではないでしょうか。

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さて、私は5.18民主広場界隈の史跡を史跡を巡った後、5.18自由公園を訪れました。

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こちらの自由公園にも、民主化運動記録館と比べて小規模ながら充実した展示室があります。

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こちらの展示室で、私が特に興味を引かれたのは――

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全南大学校教授協議会による時局宣言。この時局宣言に、私は「本当の知識人」の姿を見ました。

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軍隊は、たとえ相手が市民であっても、「敵」と認識すれば銃口を向けます。これについて日本も例外ではないことは、「歴史」が証明するところです。

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自由公園の展示室では、5.18民主化運動について詳細に記された小冊子をいただきました。

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光州市民の皆さんにとって、5.18民主化運動は決して「過去」のことではなく、まさに「現在進行形」のことであるということを、今回私は光州を訪れて感じました。「平和のために闘うためにはここ(広島)を訪れるべきだ」というチェ・ゲバラの言葉に倣い、私は「民主主義のために闘うためにはここ(光州)を訪れるべきだ」と言いたいです。

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少年が来る (新しい韓国の文学)

少年が来る (新しい韓国の文学)

 

 

憲法を護るための、改憲をしよう。

はじめにお断りしておきますが、私は政府・自民党が進めようとしている改憲には断固反対の立場です。そんな私が「改憲をしよう」などと言うのは、「矛盾」だと感じる方も少なくないでしょう。ですが、思うに「憲法を護ること=護憲」を「改憲を一切許さないこと」だと解することが、そもそも間違っています。私が政府・自民党の進めようとしている改憲に断固として反対なのは、それが「改憲」ではなく憲法を壊す「壊憲」だからです。

私がこのようなことを言えば、いわゆる「改憲派」の人の中には「『護憲派』は憲法を一切変えてはならないと考えている。だから『護憲派』の護憲は欺瞞なのだ」と、いわゆる「護憲派」を批判する人もいるでしょう。ですが、それは「護憲派」の一部の人たちが「護憲」の意味を誤解しているだけの話であって、「憲法を護ること=護憲」そのものに対する批判としては、ナンセンスであると言わざるを得ません。

さて、現行の日本国憲法の基本理念が素晴らしいものであるのは、私も当然認めるところであり、だからこそ私は政府・自民党が進めようとしている改憲には断固反対の立場をとっています。ですが、そんな日本国憲法も、決して「完全無欠」なものとはいえません。

人権とは、国家によって恩恵として与えられるものでもなければ、憲法によって与えられるものでもなく(憲法は人権を保障するものであって、憲法を与えるものではありません)、人間が人間であることにより当然に有する権利です。しかるに、現行の日本国憲法は、残念ながら「日本国民の権利」を保障したものと解釈しうる余地が多分に残されてしまっています。もっとも、日本国憲法を「日本国民の権利」のみを保障したものだとする解釈は通説的見解によって否定されてはいますが、しかし「人権は、人種や国籍などにかかわりなく、人間であることに基づいて当然に共有できる権利である」という「人権の普遍性」が徹底されているとは言い難いです。したがって、現行の日本国憲法も「人権の普遍性」を徹底させるための改正が必要であり、それこそまさに「憲法を護るための改正」だと、私は考えます。

ところで、「憲法を護る」ことに関していえば、日本国憲法の「平和主義」についても、そろそろ考え直すべきときかもしれません。とは言っても、それは決して安倍政権が考える方向で、ではありません。私が言いたいのは、「はたして『戦後平和主義』は、本当に日本国憲法の『平和主義』という理念に沿ったものであったか」と問い直す必要があるということです。

たしかに、「憲法9条のおかげ」で、敗戦後の日本は自らイニシアチブをとって戦争をしなかったかもしれません。しかし、「朝鮮戦争」と「ベトナム戦争」という「帝国の、帝国による、帝国のための戦争」に加担し、それによって甘い汁を吸ったという事実を、決して忘れてはならないでしょう。はたして、憲法9条は、自らイニシアチブをとって戦争をしなければ、戦争に加担して甘い汁を吸うことを許容するものでしょうか。さらにいえば、憲法9条は、「日本」さえ戦場にならなければそれでよし、とするものでしょうか。

私たち「護憲派」は、本当の意味で「憲法を護る」ためにも、いま一度「護憲」の意味を問い直す必要があると思い、日本国憲法施行70周年の本日、本稿をしたためた次第です。

 

 

果たして、私たちは「北朝鮮」の体制に対する適格な批判者たりうるか。

前エントリに関して、私が「朝鮮民主主義人民共和国(以下、DPRKと表記)の体制を絶対批判してはならない」と主張していると思われた方も、 少なからずいらっしゃるかもしれません。

私は、決して「DPRKの体制を絶対批判してはならない」などと主張するつもりはありません。しかしながら、前回の拙稿には言葉足らずで誤解を招く点があったかもしれません。ですので、そのあたりのことに関して本稿で若干補足したいと思います。

実際、「『北朝鮮』を悪魔視すること」と「DPRKの体制を批判すること」の区別は難しいものがあると思います。それゆえ、「『北朝鮮』を悪魔視するな」と言うと、「『北朝鮮』を批判するなと言うのか」といった反論があるのも、もちろん分かります。

しかしながら、日本国民はDPRKの体制を批判するに際し、はたしてDPRKを日本と対等な存在として見ているでしょうか。たとえば、「北朝鮮」を 「何をしでかすか分からない野蛮国家だ」などというように、どこか蔑視してしまってはいませんでしょうか。DPRKの体制を批判するに際し、どこか「北朝鮮」を揶揄せずにいられなかったりはしないでしょうか。そのような批判は、たとえ朝鮮の人民の解放を願うものであったとしても、残念ながら真に朝鮮の人民の解放に資するものとはならないでしょう。

また、安倍政権を批判するに際し、ことさらに「北朝鮮」と安倍政権を重ね合わせることは、「安倍政権」を「日本」から"切断処理"するものであるという点で、ある種の「排外主義」的な態度といえるのではないでしょうか。「安倍政権」の問題は、紛れもなく「日本」の内なる問題です。その点から目を背けて安倍政権を批判したところで、「アベ政治」を終わらせることなど決してできないでしょう。

さらに、もし日本国民が安倍政権の「被害者」たる側面をもっている(もっとも、日本国民の多数派には安倍政権を生み出した「責任」はあるでしょうから、「被害者」と言ってしまうことに私はいささか戸惑いを覚えますが……)と言うのであれば、その点ではたしかに金政権の「被害者」たる朝鮮の人民と共通するかもしれません。ですが、やはり日本国民が所属する日本という国が、朝鮮の人民にとっては「加害者」であり(「拉致問題」が日本の加害者性を消し去ることは決してありません。)「抑圧者」であったということを、決して忘れてはならないでしょう(現状はともかく、本来は朝鮮に「南」も「北」もありません。)。その点を看過し、両者の"溝"を埋めることなく安易に「連帯」を主張することはできないと私は思います。

もっとも、「DPRKを対等な存在として見ろというのに、他方で日本と朝鮮が非対称な関係であることを看過してはならないというのは、矛盾ではないか」と思われるかもしれません。ですが、「日本と朝鮮が『抑圧者と被抑圧者』であった」という非対称な関係をまずはしっかりと見つめるということは、両者の"溝"を埋め「対等な関係性」を回復するためにも必要なことであり、たとえ矛盾であったとしても「対等な関係性」を維持するという「DPRKを対等な存在として見る」ということと敵対する矛盾ではないと、私は考えます。

つまるところ、日本社会(国民)によるDPRKの体制に対する批判を正当ならしめるためにも、別の言い方をすれば日本社会(国民)がDPRKの体制に対する適格な批判者たりうるためにも、何よりもまずは日本社会(国民)が、近代から現代に至るまで綿々と続く「コリア蔑視観」を克服し、かつ排外主義的な民族差別を克服しなければならないと、私は思います。そうでなければ、いくら「『北朝鮮』を悪魔視するつもりはない」と言ったところで、説得力はないでしょう。

「アベ政治を許さない」だけでは、「アベ政治」は終わらない。

初めにお断りしておきますが、私の立ち位置は「安倍政権批判者」です。ですので、「打倒安倍政権」を訴える人々の姿勢に対して批判めいたことを言うと「味方を後ろから撃つような真似はやめろ」と叱られるかもしれませんが、それでもあえて言いたいと思います。

たしかに、「アベ政治を許さない」ということには、私も賛成です。しかし、私はどうしても「アベ政治を許さない」と訴える安倍政権批判者の一部の人たちの態度に、違和感を覚えます。それが顕著に感じられるのが、「“北朝鮮”(朝鮮民主主義人民共和国)問題」と、「“従軍慰安婦”(日本軍性奴隷)問題」です。

まず、「“北朝鮮”(朝鮮民主主義人民共和国)問題」について言えば、たしかに朝鮮民主主義人民共和国(以下、DPRKと表記)の金正恩政権に様々な問題があることは、私も否定はしません。ですが、だからといって、その問題を解決するためにアメリカが武力行使することが、はたして許されるでしょうか。もしあなたが民主主義者であるならば、そのような解決方法は許すべきではありません。たとえ「金正恩の時代」が終わるとしても、それを終わらせることができるのは、アメリカではないのはもちろんのこと、韓国でも日本でも国連でもありません。それができるのは、朝鮮の人民だけです。

しかしながら、日本では「北朝鮮」を悪魔視する人が後を絶ちません。政府、マスメディアから国民に至るまで、文字通り「国ぐるみ」で「北朝鮮」を悪魔視しています。残念ながら「アベ政治を許さない」人の中にも、「北朝鮮」を悪魔視し、わざわざ「北朝鮮」と安倍政権を重ね合わせて安倍政権を批判する人が見受けられます。もちろん、DPRKの政権を批判するなとは言いません(もっとも、日本政府や日本国民にDPRKの政権を批判する資格があるのか、いささか疑問ではありますが)。ですが、「北朝鮮」を悪魔視するその態度が、朝鮮学校に対する差別的措置といった「アベ政治」の在日コリアン差別政策を増長させ、朝鮮学校の児童や学生を標的としたヘイトクライムを誘発し、あるいは「アベ政治」の戦争危機煽動を助長しているということを、どうか忘れないでください。

つぎに、「“従軍慰安婦”(日本軍性奴隷)問題」について言えば、どうやら「アベ政治を許さない」人の中には、「アベ政治」と同様に「平和の少女像」(日本政府とそれに追随するマスメディアは「慰安婦少女像」と呼称していますが)を許せない人が、残念ながらしばしば見受けられます。朝日新聞をはじめとする、いわゆる「リベラル紙」も、ことに平和の少女像に関しては紙面から敵意を滲ませています。もしかすると彼らは、安倍政権やその支持者たちと同様に平和の少女像を「反日の象徴」だと捉えているのかもしれませんが、しかしそれは平和の少女像を見誤るものです。つまり、思うに平和の少女像は、「女性に対する抑圧的かつ家父長的な家族国家イデオロギー」に対する抵抗を象徴するものであり、「女性に対する抑圧的かつ家父長的な家族国家イデオロギー」こそ、まさしく「アベ政治」が理想とする「美しい国」の中核をなすものであるといえます。そうだとすれば、平和の少女像はまさに「アベ政治を許さない」ことを象徴するものだといえるのではないでしょうか。

そもそも「反日」などという概念にとらわれること自体、韓国とその市民を対等な存在として見ていませんが、そのような「コリア蔑視観」もまた、「アベ政治」が「取り戻したい日本」を支えてきたものであるといえます。しかるに、「アベ政治を許さない」と訴える人が「反日」などという言葉を臆面もなく口にしているとすれば、厳しいことを言わせてもらえば、その人の「アベ政治を許さない」という訴えは欺瞞でしかありません。

安倍政権批判者の中には、最大野党を支持する人も少なくないでしょう。その最大野党の政治家にも、「北朝鮮」を悪魔視し、「平和の少女像」を敵視する人が少なからず見受けられます。そのような「現状」を見るにつけ、私は「安倍政権が退陣したところで、結局のところ同様の帝国主義的な政権が生まれるだけではないだろうか」と思わずにいられません。

冒頭で述べたように、私も「安倍政権批判者」ですから、「アベ政治」を終わらせることに異論はありません。ですが、今のままでは決して「アベ政治」を終わらせることはできないでしょう。「アベ政治を許さない」をお題目とするのではなく、「アベ政治」の根底にあるものを把握し、それを克服することこそが、本当の意味で「アベ政治」を終わらせるために必要なことであると、私は思います。

「反日/親日」というモノサシは、もう捨てよう。

日本では、相変わらず「反日親日二分法思考」が蔓延しています。それは多くの場合、韓国や中国をバッシングするために用いられます(「親日」でさえも、「◯◯国は親日だ。それに比べて、韓国や中国は……」というように。)。ですが、時として「韓国(人)だって全てが反日ではない。韓国(人)にだって、親日な部分(人)はある(いる)」というように、「反日バッシング」に対する反論として用いられることがあります。

おそらく、そのような反論に共感を覚える人は少なくないでしょう。しかし、私はどうしてもそのような反論には共感できません。

いったいどうして、「反日親日」というモノサシを捨てようとしないのでしょうか。そもそも、どうして「日本」に反抗してはならないのでしょうか。どうして「日本」を無条件に好きでいなければならないのでしょうか。そのような「日本」とは、いったい何様のつもりなのでしょうか。

つまり、「反日親日二分法思考」というのは、「他者への想像力」に欠けた、どこまでも「自己中心的」なものだということです。もっとも、「日本人なのだから、日本本位に考えるのは当然だ」と言う人がいるかもしれません。ですが、そのような考え方こそ、まさに「他者への想像力」に欠けた、どこまでも「自己中心的」なものではないでしょうか。そのような考え方をする人は誤解しているのかもしれませんが、「他者への想像力を働かせる」ということは、なにも「他者に阿る」ということではありません。「他者への想像力を働かせる」ということをそのように誤解するというのも、ある意味では「反日親日二分法思考」の弊害なのかもしれません。

結局のところ、「反日親日二分法思考」に囚われている人は、「他者」を自分より下に見ているということです。残念ながら、「差別主義者」のみならず、反差別や民族の友好を訴える人のなかにも「反日親日二分法思考」にとらわれている人がしばしば見受けられます。しかしそれでは、「真の友好関係」など築くことは到底できないでしょう。たとえ反差別や民族の友好を訴えるためであっても、「〇〇人のうち反日はごく一部であって、多くの人は親日家だ」などということは、少なくとも「日本人」の側から言うべきではないと思います。

真に差別の解消や民族の友好関係を実現するためにも、反差別や民族の友好を訴える人こそ「反日親日」というモノサシを捨てて欲しいと、私は切に思います。

もちろん、「反日親日」というモノサシを捨てることは、真に差別の解消や民族の友好関係を実現するためだけではありません。それはなによりも私たち自身にとって、「共同の幻想」に囚われることなく「自由な人間」として生きるために必要なことなのではないでしょうか。

わたしを殺さないでください

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、「人を殺すのは悪いことだからだ」と答えたとして、既存の価値観を否定することが「価値中立的」であるとする今の日本では、もはやそのような答えは有効ではないようです。

ならば私は反問したいと思います。「なぜ人は殺されなければならないのでしょうか?殺されたくない人が、なぜ殺されなければならないのでしょうか?」

そのような私の反問に対して、もしかすると「殺されるだけの“理由”がある人もいるだろう」と答える人がいるかもしれません。あるいは、「人が人を殺すには、なんらかの“理由”があるはずだ。そうであるならば、人を殺す人の気持ちも考える必要があるのではないだろうか」と答える人がいるかもしれません。ですが、殺されるだけの“理由”は果たして本当に「理由」なのでしょうか。つまり、そのような“理由”があるからといって、「人を殺してもよい」ということになるのでしょうか。そのような“理由”は、「人を殺してもよい」という結論ありきで後から取ってつけたものにすぎないのではないでしょうか。もちろん、「人を殺す人の気持ち」を考えるのは、それこそ自由です。しかし、「人を殺す人の気持ち」の気持ちが如何なるものであろうと、それは殺される人の与り知らぬことでしょう。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、残念ながら私は確かな答えを持ち合わせていません。ですが、そんな私でも、確かに言えることがひとつあります。それは、人には「殺されない権利」があるということです。そしてそれは、誰しも人間として生まれた以上、当然に有するものです。なぜなら、この世界に生まれ、この世界で生きることを引き受けた「人間」だからです。

もしもあなたが私を殺さなければ誰かに殺されるとしても、私があなたに殺されなければならない理由はありません。同様に、あなたがその誰かに殺されなければならない理由もありません。なぜなら、あなたも私も、「殺されない権利」があるのですから(もっとも、あなたが私を殺したとして、そのことを「国民」に非難され「国民」の委託を受けた「国家」によって罰せられるかどうかは、また別の話です。)。

冒頭でも触れましたが、既存の価値観を否定することが「価値中立的」であるとする今の日本では、「人を殺すのは悪いことだ」というテーゼに対して懐疑的な人が少なくないようです。それならば、大人たちが子供たちに「人を殺すことは悪いことだ」と教えなくても別に構いません。ですが、「人は誰しも人間として生まれた以上、殺されない権利を当然に有する」ということだけは、やはり子供たちに伝えなければならないと、私は思います。

「韓流」は、はたして「歴史を忘却させるためのコンテンツ」でしかないのだろうか。

(耕論)多難な日韓関係 小倉和夫さん、徐永娥さん、古家正亨さん

朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/DA3S12832218.html

 

朝日新聞2017年3月9日付朝刊オピニオン面に掲載された韓国大衆文化ジャーナリスト・古家正亨氏のオピニオン記事を好意的に受け止める人は、どうやら少なくないようです。

それはおそらく、この記事が「『日韓』友好」を謳ったものだからでしょう。

ですが、このような「植民地主義」に満ちたまなざしで書かれた(私は、このオピニオン記事の聞き手である朝日新聞論説委員・箱田哲也氏によるコラムの「自分は韓国人でなくて良かったと思う」という一節を、忘れることができません。)オピニオン記事を好意的に受け止めることは、私にはどうしてもできません。

古家氏の意見を要約すれば、それは「韓国の若者は『親日』であるのに、日本の在外公館の前に少女像を作るような『反日』韓国人のおかげで、日本人が韓国に悪い印象を抱く」というものです。

古家氏はどうして、そのような「日本」本位なまなざしでしか「『日韓』関係」を眺めることができないのでしょうか(「古家氏が『日本人』なのだから、それは当然のことだ」と言う人がいるかもしれませんが、「『日本人』なのだから当然」というところで思考を止めてしまって、はたして良いものなのでしょうか。)。

古家氏の、「歴史問題をかざして日韓〔ママ〕関係をあえてややこしくする大人がいるが、せっかく若い世代が新しい関係性を作ろうとしているのだから、大人はそれを邪魔するべきではない」という旨の主張にも、私は疑問を禁じえません。「日本による植民地支配の歴史」から目を背けたまま構築されるような「『日韓』関係」に、いったいどれほどの意義があるのでしょうか。思うに、そのようにして築かれる(古家氏の言う)「良質な『日韓』関係」なるものは、所詮は「日本にとって都合の良い『日韓』関係」でしかありません。

もっとも、「日本による植民地支配の歴史」から目を背けていたい人にとっては、古家氏の主張は「至極正論」なのかもしれません。ですが、古家氏の主張は、「韓流」を「『日本による植民地支配の歴史』を忘却させるためのコンテンツ」とするものでしかありません。はたして、本当に「韓流」は「『日本による植民地支配の歴史』を忘却させるためのコンテンツ」でしかないのでしょうか。

古家氏は、「昨今の日韓〔ママ〕関係の悪化によって、日本の韓流ファンが踏み絵の前に立たされている」という趣旨のことを言います。たしかに、「外で堂々と韓流に関する話ができなくなっている」昨今の日本の状況については、私も憤りを覚えます。しかし、だからといって「日本人」が「韓流」を心地良く消費できさえすれば、それで良いのでしょうか。さらにいえば、「日本人」が「韓流」を心地良く消費するために「韓流」が「『日本による植民地支配の歴史』を忘却させるためのコンテンツ」として利用されることで、「人間の尊厳」を踏みにじられ続ける人がいても構わないのでしょうか。

結局のところ、古家氏の言う「良質な『日韓』関係」すなわち「日本による植民地支配の歴史」から目を背けたまま構築される「『日韓』関係」は、(『日韓』基本条約が締結された)「日本の内にある、1965年以降の新たな植民地支配の関係」でしかありません。私がなによりも残念に思うのは、(冒頭でも触れましたが)そのような関係を「良質な『日韓』関係」だとする古家氏の言説に賛意を示す「韓国に対して好意的な人」が少なからず見受けられる、ということです。このような状況が続くかぎり、韓流スターやK‐POPアーティストは「反日親日フィルター」によって選別され、言葉は悪いですが「日本人」を癒す「従順なペット」でいることを強いられ続けるでしょう。例えば、韓国のある俳優さんが、ある韓国のテレビ番組で日本軍性奴隷被害者を後援するTシャツを着ていたという、つまり戦争犯罪の被害者支援を表明したというそれだけの理由で、日本のインターネット上で「反日だ」と非難されるように……。