葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

わたしを殺さないでください

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、「人を殺すのは悪いことだからだ」と答えたとして、既存の価値観を否定することが「価値中立的」であるとする今の日本では、もはやそのような答えは有効ではないようです。

ならば私は反問したいと思います。「なぜ人は殺されなければならないのでしょうか?殺されたくない人が、なぜ殺されなければならないのでしょうか?」

そのような私の反問に対して、もしかすると「殺されるだけの“理由”がある人もいるだろう」と答える人がいるかもしれません。あるいは、「人が人を殺すには、なんらかの“理由”があるはずだ。そうであるならば、人を殺す人の気持ちも考える必要があるのではないだろうか」と答える人がいるかもしれません。ですが、殺されるだけの“理由”は果たして本当に「理由」なのでしょうか。つまり、そのような“理由”があるからといって、「人を殺してもよい」ということになるのでしょうか。そのような“理由”は、「人を殺してもよい」という結論ありきで後から取ってつけたものにすぎないのではないでしょうか。もちろん、「人を殺す人の気持ち」を考えるのは、それこそ自由です。しかし、「人を殺す人の気持ち」の気持ちが如何なるものであろうと、それは殺される人の与り知らぬことでしょう。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、残念ながら私は確かな答えを持ち合わせていません。ですが、そんな私でも、確かに言えることがひとつあります。それは、人には「殺されない権利」があるということです。そしてそれは、誰しも人間として生まれた以上、当然に有するものです。なぜなら、この世界に生まれ、この世界で生きることを引き受けた「人間」だからです。

もしもあなたが私を殺さなければ誰かに殺されるとしても、私があなたに殺されなければならない理由はありません。同様に、あなたがその誰かに殺されなければならない理由もありません。なぜなら、あなたも私も、「殺されない権利」があるのですから(もっとも、あなたが私を殺したとして、そのことを「国民」に非難され「国民」の委託を受けた「国家」によって罰せられるかどうかは、また別の話です。)。

冒頭でも触れましたが、既存の価値観を否定することが「価値中立的」であるとする今の日本では、「人を殺すのは悪いことだ」というテーゼに対して懐疑的な人が少なくないようです。それならば、大人たちが子供たちに「人を殺すことは悪いことだ」と教えなくても別に構いません。ですが、「人は誰しも人間として生まれた以上、殺されない権利を当然に有する」ということだけは、やはり子供たちに伝えなければならないと、私は思います。

「韓流」は、はたして「歴史を忘却させるためのコンテンツ」でしかないのだろうか。

(耕論)多難な日韓関係 小倉和夫さん、徐永娥さん、古家正亨さん

朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/DA3S12832218.html

 

朝日新聞2017年3月9日付朝刊オピニオン面に掲載された韓国大衆文化ジャーナリスト・古家正亨氏のオピニオン記事を好意的に受け止める人は、どうやら少なくないようです。

それはおそらく、この記事が「『日韓』友好」を謳ったものだからでしょう。

ですが、このような「植民地主義」に満ちたまなざしで書かれた(私は、このオピニオン記事の聞き手である朝日新聞論説委員・箱田哲也氏によるコラムの「自分は韓国人でなくて良かったと思う」という一節を、忘れることができません。)オピニオン記事を好意的に受け止めることは、私にはどうしてもできません。

古家氏の意見を要約すれば、それは「韓国の若者は『親日』であるのに、日本の在外公館の前に少女像を作るような『反日』韓国人のおかげで、日本人が韓国に悪い印象を抱く」というものです。

古家氏はどうして、そのような「日本」本位なまなざしでしか「『日韓』関係」を眺めることができないのでしょうか(「古家氏が『日本人』なのだから、それは当然のことだ」と言う人がいるかもしれませんが、「『日本人』なのだから当然」というところで思考を止めてしまって、はたして良いものなのでしょうか。)。

古家氏の、「歴史問題をかざして日韓〔ママ〕関係をあえてややこしくする大人がいるが、せっかく若い世代が新しい関係性を作ろうとしているのだから、大人はそれを邪魔するべきではない」という旨の主張にも、私は疑問を禁じえません。「日本による植民地支配の歴史」から目を背けたまま構築されるような「『日韓』関係」に、いったいどれほどの意義があるのでしょうか。思うに、そのようにして築かれる(古家氏の言う)「良質な『日韓』関係」なるものは、所詮は「日本にとって都合の良い『日韓』関係」でしかありません。

もっとも、「日本による植民地支配の歴史」から目を背けていたい人にとっては、古家氏の主張は「至極正論」なのかもしれません。ですが、古家氏の主張は、「韓流」を「『日本による植民地支配の歴史』を忘却させるためのコンテンツ」とするものでしかありません。はたして、本当に「韓流」は「『日本による植民地支配の歴史』を忘却させるためのコンテンツ」でしかないのでしょうか。

古家氏は、「昨今の日韓〔ママ〕関係の悪化によって、日本の韓流ファンが踏み絵の前に立たされている」という趣旨のことを言います。たしかに、「外で堂々と韓流に関する話ができなくなっている」昨今の日本の状況については、私も憤りを覚えます。しかし、だからといって「日本人」が「韓流」を心地良く消費できさえすれば、それで良いのでしょうか。さらにいえば、「日本人」が「韓流」を心地良く消費するために「韓流」が「『日本による植民地支配の歴史』を忘却させるためのコンテンツ」として利用されることで、「人間の尊厳」を踏みにじられ続ける人がいても構わないのでしょうか。

結局のところ、古家氏の言う「良質な『日韓』関係」すなわち「日本による植民地支配の歴史」から目を背けたまま構築される「『日韓』関係」は、(『日韓』基本条約が締結された)「日本の内にある、1965年以降の新たな植民地支配の関係」でしかありません。私がなによりも残念に思うのは、(冒頭でも触れましたが)そのような関係を「良質な『日韓』関係」だとする古家氏の言説に賛意を示す「韓国に対して好意的な人」が少なからず見受けられる、ということです。このような状況が続くかぎり、韓流スターやK‐POPアーティストは「反日親日フィルター」によって選別され、言葉は悪いですが「日本人」を癒す「従順なペット」でいることを強いられ続けるでしょう。例えば、韓国のある俳優さんが、ある韓国のテレビ番組で日本軍性奴隷被害者を後援するTシャツを着ていたという、つまり戦争犯罪の被害者支援を表明したというそれだけの理由で、日本のインターネット上で「反日だ」と非難されるように……。

 

「魔術〈エロティシズム〉使い」に大切なこと

エロティックな創作表現を擁護するためにしばしば援用される言説に、「フィクションは現実に影響を及ぼさない」というものがあります。

たしかに、エロティックな創作表現を現実の性犯罪と安易に結びつけるような(エロティックな表現に対する)批判的言説には、私も憤りを覚えます。

しかし、「フィクションは現実に影響を及ぼさない」というのも、それは違うと思います。つまり、たとえフィクションの影響によって「現実」において行動を起こさないにしても、フィクションが「現実」を生きる私たちの価値観の形成に、良くも悪くも影響を及ぼすことは、やはり否定できないと思うのです。

エロティックな創作表現と性犯罪の関係について言えば、たとえエロティックな創作表現の影響によって現実に性犯罪を実行しなかったとしても、エロティックな創作表現の影響によって性犯罪を許容するような「価値観」を持ってしまう危険は十分にある、ということです。

もちろん、性犯罪を許容するような「価値観」を持つことのみを理由として刑罰を科されるようなことがあってはなりません。また、エロティックな創作表現が性犯罪を許容するような「価値観」の形成に寄与する危険があるからといって、それを公権力をもって安易に規制すべきではありません。しかし、そうはいっても、やはりエロティックな創作表現が内包する危険から目を背けてはならないのであり、それはエロティックな創作表現を愛好する者の「責任」であると思います。

そもそも、「現実」を生きる私たちの価値観の形成に影響を及ぼさないようなフィクションに、どれほどの意味があるでしょうか。思うに、エロティックな創作表現は「人間の生」について考える上で十分に意義のあるものです(なお、「十分に意義のあるもの」か否かを判断するために「高尚なアートか、それとも低俗なポルノグラフィか」などという“曖昧な”物差しを用いるつもりは毛頭ありません。)。さらにいえば、エロティックな創作表現は、生き辛いこの世界を生きるための、いわば「魔術」です。ただ、このエロティシズムという「魔術」は、時として私たちを呑みこみ、人間疎外を惹き起こしてしまう危険をはらむものです。そのような危険な「魔術」を使う者だからこそ、エロティックな創作表現を愛好する私たちは、「魔術」の取り扱いに慎重でなければなりません。

私は、エロティックな創作表現を愛好する者だからこそ、エロティシズムという魔力の危険から目を背けずにいたいと思います。

共謀罪を創設しないこと、それこそが「歯止め」である。

東京新聞:「共謀罪」拡大解釈の懸念 準備行為、条文に「その他」:社会(TOKYO Web) http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201702/CK2017022202000131.html

 

安倍政権が創設を目論む共謀罪に関して、「共謀罪を創設するにしても、一定の歯止めが必要だ」という言説があります。このような言説は、「一定の歯止めが必要だ」としている点で、一見至極穏当なもののように思えるかもしれません。しかし、私はそのような言説に、どうしても違和感を覚えます。それというのも、そのような言説は、共謀罪の問題の本質をはぐらかすものであるからです。

すなわち、思うに共謀罪は、犯罪構成要件が過度に広汎かつ不明確であるという点で、その創設を認めることは、人権保障のための「歯止め」である「構成要件の人権保障機能」という刑法理論を歪曲するものです。つまり、共謀罪の創設それ自体が人権保障のための「歯止め」を外すものである以上、そのようなものに「一定の歯止めが必要だ」などと言ったところで、それはまやかしでしかないということです。

そもそも、共謀罪創設の目的が「テロ対策」だというのも疑わしいですが(もっとも、市民によるデモを「テロ」だなどと言った自民党の政治家がいましたが……)、百歩譲って安倍政権が主張する「テロ対策の必要性」があるとしましょう。ですが、その場合でも必要なのはあくまでも「テロ対策」であって、「共謀罪」ではありません。つまり、「共謀罪」は「目的」ではなく「手段」にすぎないのであって、そうだとすれば「共謀罪の創設が必要であるとしても、一定の歯止めが必要だ」などと言うのは、目的と手段を履き違えていると言わざるをえません。

繰り返しますが、共謀罪の創設それ自体が、人権保障のための「歯止め」を外すものです。ゆえに、共謀罪を創設しないこと、それこそが必要な「歯止め」です。

「北朝鮮」を批判する前に

ここ連日、日本のマスメディアは挙って「金正男氏殺害事件」を報じています。それらの多くが、あたかも「『北朝鮮』は恐ろしい野蛮な国家である」と言わんばかりのものです。日本のマスメディアは、そんなにも「北朝鮮」を「悪魔視」して、日本政府による「朝鮮(「北朝鮮」ではなく、朝鮮)」差別政策を増長させたいのでしょうか。

――このような事を言えば、“愛国者”を自称する人のみならず、“リベラル派”を自称する人からも「『北朝鮮』が恐ろしい野蛮な国家であることは事実だろうが。なのに『北朝鮮』を批判することも許されないのか」とお叱りを受けるかもしれません。

たしかに、朝鮮民主主義人民共和国政府(以下、DPRKと呼ぶ)には、「国際社会」から批判されてしかるべき点があるのは事実かもしれません(もっとも、日本も客観的には同じように「国際社会」から批判されてしかるべき点があるでしょうが……)。ですが、もし「『北朝鮮』が恐ろしい野蛮な国家であ」ったからといって、日本政府による「朝鮮籍」の人々や朝鮮学校に対する差別政策、あるいは「日本国民」による朝鮮民族蔑視や差別を正当化することが果たして許されるものでしょうか。つまり、「『北朝鮮』が恐ろしい野蛮な国家である」ことなどではなく、「『北朝鮮』が恐ろしい野蛮な国家である」として日本政府が「朝鮮籍」の人々や朝鮮学校に対して差別政策を執り、あるいは「日本国民」が朝鮮民族を蔑視し差別することこそが、日本における重大な問題だということです。

そもそも、今の日本政府や「日本国民」の多数派にDPRKを批判する資格があるでしょうか。どうしてもDPRKを批判したいのであれば、「日本」がその帝国主義イデオロギーを克服することが先決ではないでしょうか。しかるに、日本政府がなおも帝国主義イデオロギーを克服することなく民族差別政策を執り続け、「「日本国民」が権力によって植えつけられた「朝鮮蔑視観」を克服しないのであれば、日本政府や「日本国民」の多数派にDPRKを批判する資格はありません。

残念ながら安倍政権批判者の中には、「北朝鮮」を引き合いに出して安倍政権を批判する人が少なからず見受けられます。「北朝鮮」を「悪魔視」する彼らの態度は、「北朝鮮」を「悪魔視」して「朝鮮」差別政策を執り続ける安倍政権の態度と本質的に変わらないものであることに、果たして彼らは気づいているでしょうか。これでは、たとえ安倍政権を倒すことができたとしても、安倍政権と同様の排外主義的・帝国主義イデオロギーを本質とする政権が再び生まれるだけでしょう。

【お知らせ】ブログ名を変更しました

あまりにも個性のないブログ名でしたので、ブログ名を変更してみました。

新しいブログ名は、「あしべの自由帳」です。

なんだか、それほど変わり映えがしない気もしますが……

ブログ名の通り、日々「考えたこと、感じたこと」を自由に書き綴っていきたいと思います。

今後とも、拙ブログをよろしくお願いいたします。

「日本人には民主主義は無理である」という、不遜な言説について。

「日本人には民主主義は無理である」という言説をしばしば見聞します。おそらく今の日本の政治状況を憂う人の中には、このような言説に共感を覚える人もいるでしょう。しかし、私にはどうもそのような言説がひどく不遜なものに思えてなりません。

もっとも、私は「日本人には民主主義は無理である」という言説が「日本人をバカにしている」から不遜であると言いたいのではありません。そうではなくて、そのような言説がある意味「マジョリティの傲慢」であるゆえ、不遜であると思うのです。

「日本人には民主主義は無理である」などと、さも分かったようなことを言う人は、はたして一度でもこの日本で「ぼくらの民主主義」から疎外されている人々のことに思いを至らせたことがあるでしょうか。つまり、「日本人には民主主義は無理である」などと絶望していられるのも、マジョリティの「特権」だということです。

そもそも、「日本国籍者」と全く同じ義務を負っているにもかかわらず、「日本国籍者」ではないというただそれだけで「治者」ではない「被治者」を生み出すような今の日本の体制が完全な民主主義であるという、その認識自体が間違いです。「民主主義」に絶望するなら、せめて完全な民主主義を実現してからにしてほしいものです。

それに、「日本人には無理である」というのも間違いです。なぜなら、もし今の日本において民主主義の実現を阻害するものがあるとしても、それは「民族性」などというものではなく、権力によって作られた「帝国主義イデオロギー」だからです。そうであれば、私たちが民主主義の実現を阻害するものを壊すことは、決して不可能なことではありません。

民主主義そのものは「治者と被治者の自同性」であって、それ以上でもそれ以下でもありません。そのような民主主義を「日本人には民主主義は無理である」などと言って諦める人は、はたして本当に自らが「治者に隷属する被治者」となることを受け入れるのでしょうか。

ただ、先にも述べたように、今の日本の「民主主義」が「日本国籍者」と全く同じ義務を負っているにもかかわらず、「日本国籍者」ではないというただそれだけで「治者」ではない「被治者」を生み出すような不完全なものであることに鑑みると、「民主主義を諦めても良いのか」と問うこと自体が「マジョリティの傲慢」なのかもしれません。

そうだとすれば、私たちが民主主義を真に語るためには、なによりもまず完全な民主主義を実現することが必要なのだと思います。