あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

「魔術〈エロティシズム〉使い」に大切なこと

エロティックな創作表現を擁護するためにしばしば援用される言説に、「フィクションは現実に影響を及ぼさない」というものがあります。

たしかに、エロティックな創作表現を現実の性犯罪と安易に結びつけるような(エロティックな表現に対する)批判的言説には、私も憤りを覚えます。

しかし、「フィクションは現実に影響を及ぼさない」というのも、それは違うと思います。つまり、たとえフィクションの影響によって「現実」において行動を起こさないにしても、フィクションが「現実」を生きる私たちの価値観の形成に、良くも悪くも影響を及ぼすことは、やはり否定できないと思うのです。

エロティックな創作表現と性犯罪の関係について言えば、たとえエロティックな創作表現の影響によって現実に性犯罪を実行しなかったとしても、エロティックな創作表現の影響によって性犯罪を許容するような「価値観」を持ってしまう危険は十分にある、ということです。

もちろん、性犯罪を許容するような「価値観」を持つことのみを理由として刑罰を科されるようなことがあってはなりません。また、エロティックな創作表現が性犯罪を許容するような「価値観」の形成に寄与する危険があるからといって、それを公権力をもって安易に規制すべきではありません。しかし、そうはいっても、やはりエロティックな創作表現が内包する危険から目を背けてはならないのであり、それはエロティックな創作表現を愛好する者の「責任」であると思います。

そもそも、「現実」を生きる私たちの価値観の形成に影響を及ぼさないようなフィクションに、どれほどの意味があるでしょうか。思うに、エロティックな創作表現は「人間の生」について考える上で十分に意義のあるものです(なお、「十分に意義のあるもの」か否かを判断するために「高尚なアートか、それとも低俗なポルノグラフィか」などという“曖昧な”物差しを用いるつもりは毛頭ありません。)。さらにいえば、エロティックな創作表現は、生き辛いこの世界を生きるための、いわば「魔術」です。ただ、このエロティシズムという「魔術」は、時として私たちを呑みこみ、人間疎外を惹き起こしてしまう危険をはらむものです。そのような危険な「魔術」を使う者だからこそ、エロティックな創作表現を愛好する私たちは、「魔術」の取り扱いに慎重でなければなりません。

私は、エロティックな創作表現を愛好する者だからこそ、エロティシズムという魔力の危険から目を背けずにいたいと思います。

共謀罪を創設しないこと、それこそが「歯止め」である。

東京新聞:「共謀罪」拡大解釈の懸念 準備行為、条文に「その他」:社会(TOKYO Web) http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201702/CK2017022202000131.html

 

安倍政権が創設を目論む共謀罪に関して、「共謀罪を創設するにしても、一定の歯止めが必要だ」という言説があります。このような言説は、「一定の歯止めが必要だ」としている点で、一見至極穏当なもののように思えるかもしれません。しかし、私はそのような言説に、どうしても違和感を覚えます。それというのも、そのような言説は、共謀罪の問題の本質をはぐらかすものであるからです。

すなわち、思うに共謀罪は、犯罪構成要件が過度に広汎かつ不明確であるという点で、その創設を認めることは、人権保障のための「歯止め」である「構成要件の人権保障機能」という刑法理論を歪曲するものです。つまり、共謀罪の創設それ自体が人権保障のための「歯止め」を外すものである以上、そのようなものに「一定の歯止めが必要だ」などと言ったところで、それはまやかしでしかないということです。

そもそも、共謀罪創設の目的が「テロ対策」だというのも疑わしいですが(もっとも、市民によるデモを「テロ」だなどと言った自民党の政治家がいましたが……)、百歩譲って安倍政権が主張する「テロ対策の必要性」があるとしましょう。ですが、その場合でも必要なのはあくまでも「テロ対策」であって、「共謀罪」ではありません。つまり、「共謀罪」は「目的」ではなく「手段」にすぎないのであって、そうだとすれば「共謀罪の創設が必要であるとしても、一定の歯止めが必要だ」などと言うのは、目的と手段を履き違えていると言わざるをえません。

繰り返しますが、共謀罪の創設それ自体が、人権保障のための「歯止め」を外すものです。ゆえに、共謀罪を創設しないこと、それこそが必要な「歯止め」です。

「北朝鮮」を批判する前に

ここ連日、日本のマスメディアは挙って「金正男氏殺害事件」を報じています。それらの多くが、あたかも「『北朝鮮』は恐ろしい野蛮な国家である」と言わんばかりのものです。日本のマスメディアは、そんなにも「北朝鮮」を「悪魔視」して、日本政府による「朝鮮(「北朝鮮」ではなく、朝鮮)」差別政策を増長させたいのでしょうか。

――このような事を言えば、“愛国者”を自称する人のみならず、“リベラル派”を自称する人からも「『北朝鮮』が恐ろしい野蛮な国家であることは事実だろうが。なのに『北朝鮮』を批判することも許されないのか」とお叱りを受けるかもしれません。

たしかに、朝鮮民主主義人民共和国政府(以下、DPRKと呼ぶ)には、「国際社会」から批判されてしかるべき点があるのは事実かもしれません(もっとも、日本も客観的には同じように「国際社会」から批判されてしかるべき点があるでしょうが……)。ですが、もし「『北朝鮮』が恐ろしい野蛮な国家であ」ったからといって、日本政府による「朝鮮籍」の人々や朝鮮学校に対する差別政策、あるいは「日本国民」による朝鮮民族蔑視や差別を正当化することが果たして許されるものでしょうか。つまり、「『北朝鮮』が恐ろしい野蛮な国家である」ことなどではなく、「『北朝鮮』が恐ろしい野蛮な国家である」として日本政府が「朝鮮籍」の人々や朝鮮学校に対して差別政策を執り、あるいは「日本国民」が朝鮮民族を蔑視し差別することこそが、日本における重大な問題だということです。

そもそも、今の日本政府や「日本国民」の多数派にDPRKを批判する資格があるでしょうか。どうしてもDPRKを批判したいのであれば、「日本」がその帝国主義イデオロギーを克服することが先決ではないでしょうか。しかるに、日本政府がなおも帝国主義イデオロギーを克服することなく民族差別政策を執り続け、「「日本国民」が権力によって植えつけられた「朝鮮蔑視観」を克服しないのであれば、日本政府や「日本国民」の多数派にDPRKを批判する資格はありません。

残念ながら安倍政権批判者の中には、「北朝鮮」を引き合いに出して安倍政権を批判する人が少なからず見受けられます。「北朝鮮」を「悪魔視」する彼らの態度は、「北朝鮮」を「悪魔視」して「朝鮮」差別政策を執り続ける安倍政権の態度と本質的に変わらないものであることに、果たして彼らは気づいているでしょうか。これでは、たとえ安倍政権を倒すことができたとしても、安倍政権と同様の排外主義的・帝国主義イデオロギーを本質とする政権が再び生まれるだけでしょう。

【お知らせ】ブログ名を変更しました

あまりにも個性のないブログ名でしたので、ブログ名を変更してみました。

新しいブログ名は、「あしべの自由帳」です。

なんだか、それほど変わり映えがしない気もしますが……

ブログ名の通り、日々「考えたこと、感じたこと」を自由に書き綴っていきたいと思います。

今後とも、拙ブログをよろしくお願いいたします。

「日本人には民主主義は無理である」という、不遜な言説について。

「日本人には民主主義は無理である」という言説をしばしば見聞します。おそらく今の日本の政治状況を憂う人の中には、このような言説に共感を覚える人もいるでしょう。しかし、私にはどうもそのような言説がひどく不遜なものに思えてなりません。

もっとも、私は「日本人には民主主義は無理である」という言説が「日本人をバカにしている」から不遜であると言いたいのではありません。そうではなくて、そのような言説がある意味「マジョリティの傲慢」であるゆえ、不遜であると思うのです。

「日本人には民主主義は無理である」などと、さも分かったようなことを言う人は、はたして一度でもこの日本で「ぼくらの民主主義」から疎外されている人々のことに思いを至らせたことがあるでしょうか。つまり、「日本人には民主主義は無理である」などと絶望していられるのも、マジョリティの「特権」だということです。

そもそも、「日本国籍者」と全く同じ義務を負っているにもかかわらず、「日本国籍者」ではないというただそれだけで「治者」ではない「被治者」を生み出すような今の日本の体制が完全な民主主義であるという、その認識自体が間違いです。「民主主義」に絶望するなら、せめて完全な民主主義を実現してからにしてほしいものです。

それに、「日本人には無理である」というのも間違いです。なぜなら、もし今の日本において民主主義の実現を阻害するものがあるとしても、それは「民族性」などというものではなく、権力によって作られた「帝国主義イデオロギー」だからです。そうであれば、私たちが民主主義の実現を阻害するものを壊すことは、決して不可能なことではありません。

民主主義そのものは「治者と被治者の自同性」であって、それ以上でもそれ以下でもありません。そのような民主主義を「日本人には民主主義は無理である」などと言って諦める人は、はたして本当に自らが「治者に隷属する被治者」となることを受け入れるのでしょうか。

ただ、先にも述べたように、今の日本の「民主主義」が「日本国籍者」と全く同じ義務を負っているにもかかわらず、「日本国籍者」ではないというただそれだけで「治者」ではない「被治者」を生み出すような不完全なものであることに鑑みると、「民主主義を諦めても良いのか」と問うこと自体が「マジョリティの傲慢」なのかもしれません。

そうだとすれば、私たちが民主主義を真に語るためには、なによりもまず完全な民主主義を実現することが必要なのだと思います。

「みんな平等に貧しく」ではなく、みんな平等に人間として生きることができるようになればいい。

この国のかたち 3人の論者に聞く
中日新聞プラス http://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=435172&comment_sub_id=0&category_id=562

 

当該記事における上野千鶴子先生の発言には少なからぬ批判が寄せられていますが、思うに上野先生の発言の問題点は、大まかに言って①「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」という点と、②「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」という点です。

①の点に関しては、日本では既に多くの外国籍の人々が働き、生活しているという「現実」に鑑みれば、排外主義と結びつく多文化共生を放棄するような言説に私は到底賛同できません。そして、①の点こそ、上野先生の発言の最大の問題だと思いますが、この点に関しては既に多くの批判が試みられています*1ので、詳細な議論は他の論稿に譲り、本稿では②の点に関して、私なりに批判的に考えてみたいと思います。

たしかに、「(安倍政権の)一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨て」るべきというのは上野先生のおっしゃる通りでしょうし、「再分配機能を強化す」べきという意見には、私も基本的に賛同します。しかし、だからといって「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」というのは、どうしても違和感を覚えてなりません。

思うに、私が上野先生のそのような言説に違和感を覚えるのは、「貧困」を肯定的に扱っているからです。もちろん、私も「人間疎外」を惹き起こすような「経済成長至上主義」には反対です。しかし、「貧困」によって「社会的存在としての人間」として生きることさえ困難な状況におかれている人が存在するのが、日本の「現実」です。しかるに、このような「現実」を軽視して「貧困」を肯定的に語るのは、「食うに困らない貴族の戯言」と受け取られても仕方がないでしょう。こんなことを言うと、「人口減少と衰退の結果としての貧しい社会という、“来るべき現実”を直視せよ」と批判されるかもしれません。ですが、そのような「現実肯定」は、残念ながら「悪しきニヒリズム」への逃避にすぎないのではないでしょうか。そして、そのような「悪しきニヒリズム」への逃避は、ブルジョア・マジョリティーの「特権」だといえるのではないでしょうか。たしかに、「現状」を解釈すれば、「人口減少と衰退の結果としての貧しい社会」が“来るべき現実”なのかもしれません。しかし、肝心なのは「世界」を解釈することではなく、それを変革することです。

もっとも、「みんな平等に……貧しくなっていけばいい」というのは、「99%が貧困に喘ぎ、1%が豪奢を極める現実」に対する皮肉なのかもしれません。しかし、「貧困」を肯定的に扱ったうえで上野先生のおっしゃる「社会民主主義」を貫徹することなど、はたして可能なのでしょうか。すなわち、「貧困」を肯定した「社会民主主義」体制の下では、「みんな平等に貧しくなる」など絵空事であり、「1%が豪奢を極めることができず慎ましく生きる(たしかに、相対的には「貧しくなった」のかもしれませんが)一方、99%は『社会的人間』として生きることを放棄せざるを得ず、やがて死に至る」というのが“来るべき現実”ではないでしょうか。

もちろん、上野先生が「1%の富裕層」のよる「富の独占」を批判しているということは、私も理解しています。ですが、「過剰な豊かさ」と、そのような過剰を生み出すシステムが問題なのであって、「豊かさ」そのものが問題ではないでしょう。つまり、目指すべきは「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」ではなく、「みんな平等に、緩やかに豊かになっていけばいい」ということです。「そんなのは絵空事だ」と言われるかもしれませんが、「みんな平等に貧しくなる」というのも所詮は絵空事なのですから、どうせ同じ絵空事なら、私は後者を選びます。

おそらく、上野先生の言説も、それを批判する私の言説も、根本的にはそれほど違いはないはずです。しかし、やはり上野先生には「みんな平等に貧しくなればいい」などと「貧困」を肯定せずに、「みんな平等に人間として生きることができるようになればいい」と言っていただきたかった、「表現上のニュアンスの問題」かもしれませんが、それでもやはり「言論人」として、もっと「言葉」を丁寧に扱っていただきたかった、私はそう思うのです。残念ながら、今回の上野先生の発言はいささか「無神経」であり、多くの人の共感を得られるものではないと言わざるを得ないでしょう。

 

 

 

 

ヘイトスピーチを真に解消するために

前回のエントリの冒頭でも書きましたが、ヘイトスピーチ解消法の施行後も、在日コリアンに対するヘイトスピーチが各地で行われており、収束の兆しは一向に見えません。それゆえ、「ヘイトスピーチ解消法に罰則規定を……」との声もしばしば聞こえます。たしかに、ヘイトスピーチを効果的に抑制するには、ヘイトスピーチ解消法に罰則規定を設けるのもひとつの方法かもしれません。また、今後の状況次第では罰則規定を設けなければヘイトスピーチ解消法が画餅に帰すこともあり得るでしょう(そうならないためにも、私たちは何ができるか、何をすべきか考えることが大切なのです。)。しかしながら、民族差別的動機に基づく犯罪で刑に服した「活動家」が民族差別煽動に再び手を染めるという現実に鑑みると、ヘイトスピーチ解消法に罰則規定を設けることでヘイトスピーチを「抑制」することができても、はたして「解消」することができるかどうかは疑問です。

もちろん、現状に鑑みれば、ヘイトスピーチ解消法が必要であることについて異論はないでしょう。ですが、言うまでもなくヘイトスピーチ解消法は「対処療法」にすぎません。すなわち、ヘイトスピーチを真に解消するためには「原因療法」が必要だということです。

それでは、ヘイトスピーチの「根本的原因」はいったい何か?思うにそれは、日本政府による民族差別政策であり、あるいはマスメディアを通じた他民族蔑視煽動(それがどのようなものであるかは、「代表格」である産経「新聞」の「報道」を見れば分かるでしょう。)であり、そしてそれらの根底に横たわる「植民地主義」と「アジア(コリア)蔑視観」です。例えば、悪質な「7月9日在日強制送還デマ」*1についても、日本政府(法務省入国管理局)による民族差別的な入管行政が大きな要因であるといえます(だからといって、デマを流した人が免責されるということなど決してありませんが。)。また、朝鮮学校に対するヘイトスピーチヘイトクライムも、まさしく日本政府(と地方自治体)による民族差別的な教育行政に起因するものだといえます。その他にも、日本軍性奴隷問題に絡めたヘイトスピーチや強制徴用問題に絡めたヘイトスピーチといった日本政府による植民地支配と戦争犯罪の正当化に起因するものなど、日本政府の態度が「根本的原因」である例を挙げれば枚挙にいとまがありません。

結局のところ、ヘイトスピーチを真に解消するためには、日本政府が民族差別政策を改め、マスメディアを通じた他民族蔑視煽動をやめることです。そして、そのために何よりもまず、「日本」という国の「差別の構造」によって支配された私たち一人ひとりの「集合的無意識」を変えなければなりません。そこで特に大切なのは、「アジア(コリア)蔑視観」を克服することだと思います。それは決して不可能なことではありません。なぜなら、日本の民族排外主義は、日本人の「民族性」によるものなどではなく、権力によって作られたものだからです。梶村秀樹先生は言います。「日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。自然現象のような『民族性』ということばは絶望に通じていきかねない。」(梶村秀樹朝鮮民族解放闘争史と国際共産主義運動」1971年)

 

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