葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

【お知らせ】ブログ名を変更しました

あまりにも個性のないブログ名でしたので、ブログ名を変更してみました。

新しいブログ名は、「あしべの自由帳」です。

なんだか、それほど変わり映えがしない気もしますが……

ブログ名の通り、日々「考えたこと、感じたこと」を自由に書き綴っていきたいと思います。

今後とも、拙ブログをよろしくお願いいたします。

「日本人には民主主義は無理である」という、不遜な言説について。

「日本人には民主主義は無理である」という言説をしばしば見聞します。おそらく今の日本の政治状況を憂う人の中には、このような言説に共感を覚える人もいるでしょう。しかし、私にはどうもそのような言説がひどく不遜なものに思えてなりません。

もっとも、私は「日本人には民主主義は無理である」という言説が「日本人をバカにしている」から不遜であると言いたいのではありません。そうではなくて、そのような言説がある意味「マジョリティの傲慢」であるゆえ、不遜であると思うのです。

「日本人には民主主義は無理である」などと、さも分かったようなことを言う人は、はたして一度でもこの日本で「ぼくらの民主主義」から疎外されている人々のことに思いを至らせたことがあるでしょうか。つまり、「日本人には民主主義は無理である」などと絶望していられるのも、マジョリティの「特権」だということです。

そもそも、「日本国籍者」と全く同じ義務を負っているにもかかわらず、「日本国籍者」ではないというただそれだけで「治者」ではない「被治者」を生み出すような今の日本の体制が完全な民主主義であるという、その認識自体が間違いです。「民主主義」に絶望するなら、せめて完全な民主主義を実現してからにしてほしいものです。

それに、「日本人には無理である」というのも間違いです。なぜなら、もし今の日本において民主主義の実現を阻害するものがあるとしても、それは「民族性」などというものではなく、権力によって作られた「帝国主義イデオロギー」だからです。そうであれば、私たちが民主主義の実現を阻害するものを壊すことは、決して不可能なことではありません。

民主主義そのものは「治者と被治者の自同性」であって、それ以上でもそれ以下でもありません。そのような民主主義を「日本人には民主主義は無理である」などと言って諦める人は、はたして本当に自らが「治者に隷属する被治者」となることを受け入れるのでしょうか。

ただ、先にも述べたように、今の日本の「民主主義」が「日本国籍者」と全く同じ義務を負っているにもかかわらず、「日本国籍者」ではないというただそれだけで「治者」ではない「被治者」を生み出すような不完全なものであることに鑑みると、「民主主義を諦めても良いのか」と問うこと自体が「マジョリティの傲慢」なのかもしれません。

そうだとすれば、私たちが民主主義を真に語るためには、なによりもまず完全な民主主義を実現することが必要なのだと思います。

「みんな平等に貧しく」ではなく、みんな平等に人間として生きることができるようになればいい。

この国のかたち 3人の論者に聞く
中日新聞プラス http://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=435172&comment_sub_id=0&category_id=562

 

当該記事における上野千鶴子先生の発言には少なからぬ批判が寄せられていますが、思うに上野先生の発言の問題点は、大まかに言って①「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」という点と、②「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」という点です。

①の点に関しては、日本では既に多くの外国籍の人々が働き、生活しているという「現実」に鑑みれば、排外主義と結びつく多文化共生を放棄するような言説に私は到底賛同できません。そして、①の点こそ、上野先生の発言の最大の問題だと思いますが、この点に関しては既に多くの批判が試みられています*1ので、詳細な議論は他の論稿に譲り、本稿では②の点に関して、私なりに批判的に考えてみたいと思います。

たしかに、「(安倍政権の)一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨て」るべきというのは上野先生のおっしゃる通りでしょうし、「再分配機能を強化す」べきという意見には、私も基本的に賛同します。しかし、だからといって「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」というのは、どうしても違和感を覚えてなりません。

思うに、私が上野先生のそのような言説に違和感を覚えるのは、「貧困」を肯定的に扱っているからです。もちろん、私も「人間疎外」を惹き起こすような「経済成長至上主義」には反対です。しかし、「貧困」によって「社会的存在としての人間」として生きることさえ困難な状況におかれている人が存在するのが、日本の「現実」です。しかるに、このような「現実」を軽視して「貧困」を肯定的に語るのは、「食うに困らない貴族の戯言」と受け取られても仕方がないでしょう。こんなことを言うと、「人口減少と衰退の結果としての貧しい社会という、“来るべき現実”を直視せよ」と批判されるかもしれません。ですが、そのような「現実肯定」は、残念ながら「悪しきニヒリズム」への逃避にすぎないのではないでしょうか。そして、そのような「悪しきニヒリズム」への逃避は、ブルジョア・マジョリティーの「特権」だといえるのではないでしょうか。たしかに、「現状」を解釈すれば、「人口減少と衰退の結果としての貧しい社会」が“来るべき現実”なのかもしれません。しかし、肝心なのは「世界」を解釈することではなく、それを変革することです。

もっとも、「みんな平等に……貧しくなっていけばいい」というのは、「99%が貧困に喘ぎ、1%が豪奢を極める現実」に対する皮肉なのかもしれません。しかし、「貧困」を肯定的に扱ったうえで上野先生のおっしゃる「社会民主主義」を貫徹することなど、はたして可能なのでしょうか。すなわち、「貧困」を肯定した「社会民主主義」体制の下では、「みんな平等に貧しくなる」など絵空事であり、「1%が豪奢を極めることができず慎ましく生きる(たしかに、相対的には「貧しくなった」のかもしれませんが)一方、99%は『社会的人間』として生きることを放棄せざるを得ず、やがて死に至る」というのが“来るべき現実”ではないでしょうか。

もちろん、上野先生が「1%の富裕層」のよる「富の独占」を批判しているということは、私も理解しています。ですが、「過剰な豊かさ」と、そのような過剰を生み出すシステムが問題なのであって、「豊かさ」そのものが問題ではないでしょう。つまり、目指すべきは「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」ではなく、「みんな平等に、緩やかに豊かになっていけばいい」ということです。「そんなのは絵空事だ」と言われるかもしれませんが、「みんな平等に貧しくなる」というのも所詮は絵空事なのですから、どうせ同じ絵空事なら、私は後者を選びます。

おそらく、上野先生の言説も、それを批判する私の言説も、根本的にはそれほど違いはないはずです。しかし、やはり上野先生には「みんな平等に貧しくなればいい」などと「貧困」を肯定せずに、「みんな平等に人間として生きることができるようになればいい」と言っていただきたかった、「表現上のニュアンスの問題」かもしれませんが、それでもやはり「言論人」として、もっと「言葉」を丁寧に扱っていただきたかった、私はそう思うのです。残念ながら、今回の上野先生の発言はいささか「無神経」であり、多くの人の共感を得られるものではないと言わざるを得ないでしょう。

 

 

 

 

ヘイトスピーチを真に解消するために

前回のエントリの冒頭でも書きましたが、ヘイトスピーチ解消法の施行後も、在日コリアンに対するヘイトスピーチが各地で行われており、収束の兆しは一向に見えません。それゆえ、「ヘイトスピーチ解消法に罰則規定を……」との声もしばしば聞こえます。たしかに、ヘイトスピーチを効果的に抑制するには、ヘイトスピーチ解消法に罰則規定を設けるのもひとつの方法かもしれません。また、今後の状況次第では罰則規定を設けなければヘイトスピーチ解消法が画餅に帰すこともあり得るでしょう(そうならないためにも、私たちは何ができるか、何をすべきか考えることが大切なのです。)。しかしながら、民族差別的動機に基づく犯罪で刑に服した「活動家」が民族差別煽動に再び手を染めるという現実に鑑みると、ヘイトスピーチ解消法に罰則規定を設けることでヘイトスピーチを「抑制」することができても、はたして「解消」することができるかどうかは疑問です。

もちろん、現状に鑑みれば、ヘイトスピーチ解消法が必要であることについて異論はないでしょう。ですが、言うまでもなくヘイトスピーチ解消法は「対処療法」にすぎません。すなわち、ヘイトスピーチを真に解消するためには「原因療法」が必要だということです。

それでは、ヘイトスピーチの「根本的原因」はいったい何か?思うにそれは、日本政府による民族差別政策であり、あるいはマスメディアを通じた他民族蔑視煽動(それがどのようなものであるかは、「代表格」である産経「新聞」の「報道」を見れば分かるでしょう。)であり、そしてそれらの根底に横たわる「植民地主義」と「アジア(コリア)蔑視観」です。例えば、悪質な「7月9日在日強制送還デマ」*1についても、日本政府(法務省入国管理局)による民族差別的な入管行政が大きな要因であるといえます(だからといって、デマを流した人が免責されるということなど決してありませんが。)。また、朝鮮学校に対するヘイトスピーチヘイトクライムも、まさしく日本政府(と地方自治体)による民族差別的な教育行政に起因するものだといえます。その他にも、日本軍性奴隷問題に絡めたヘイトスピーチや強制徴用問題に絡めたヘイトスピーチといった日本政府による植民地支配と戦争犯罪の正当化に起因するものなど、日本政府の態度が「根本的原因」である例を挙げれば枚挙にいとまがありません。

結局のところ、ヘイトスピーチを真に解消するためには、日本政府が民族差別政策を改め、マスメディアを通じた他民族蔑視煽動をやめることです。そして、そのために何よりもまず、「日本」という国の「差別の構造」によって支配された私たち一人ひとりの「集合的無意識」を変えなければなりません。そこで特に大切なのは、「アジア(コリア)蔑視観」を克服することだと思います。それは決して不可能なことではありません。なぜなら、日本の民族排外主義は、日本人の「民族性」によるものなどではなく、権力によって作られたものだからです。梶村秀樹先生は言います。「日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。自然現象のような『民族性』ということばは絶望に通じていきかねない。」(梶村秀樹朝鮮民族解放闘争史と国際共産主義運動」1971年)

 

yukito-ashibe.hatenablog.com

 

 

今こそ読むべき「梶村秀樹」

www.heibonsha.co.jp

ヘイトスピーチ解消法の施行後も、在日コリアンに対するヘイトスピーチが各地で行われており、収束の兆しは一向に見えません。

それどころか、排外主義や民族差別はさらに深刻さを増しているように感じます。

つまるところ「日本」に蔓延る排外主義や民族差別は、単に「差別主義者」個人の問題にとどまるものではなく、「日本」という国の構造的な問題なのではないでしょうか。すなわち、民族差別問題を解決するためには、「日本」という国の「差別の構造」を変えなければならない。それとともに、構造によって支配された私たち一人ひとりの「集合的無意識」を変えなければならない。そのための指針を与えてくれるのが、戦後日本の朝鮮史研究のパイオニアであった梶村秀樹先生の『排外主義克服のための朝鮮史』です。

この本を読む上でひとつ注意しておきたいのは、この本は単に「知識」を得るためのものでは決してない、ということです。それでは、この本を読む意義はどこにあるか。思うにそれは、「日本」というこの「帝国」で生きている私たちが、「日本」というこの「帝国」で生きているうちに望むと望まざるとにかかわらず獲得した、自身の「コロン(植民者)のまなざし」を自覚し、それを克服することにあります。

少なくとも近代以降、「日本」という国とその国民は、「コリア蔑視観」によって国家的アイデンティティを保ち、あるいは「虚栄心」を肥大させてきました。残念ながら、日頃より人権の大切さや反戦を訴えているリベラル(もっとも、その定義は曖昧ですが)なマスメディアでさえも、この国では「コリア蔑視観」からは自由になれないようです。もちろん、この国で偶然にマジョリティとして生まれ、その状況を受け入れて生きてきた私自身も、例外ではありません。

「知韓派」などと呼ばれてもてはやされている「有識者」の中には、どうやら「いまさら、梶村秀樹でもないだろうにね!!(笑)」などと言う人もいるようです。ですが、そのようなことを臆面もなく言ってのける「有識者」は、梶村先生の問題意識を何一つ理解していないと言わざるを得ません。また、そのような「有識者」は、「歴史を学ぶ」ということの意義を、単に「知識」を得ることとしか考えていないのだと思います。そして、そのような「有識者」によって唱えられる言説の大体が、「コリア蔑視」に満ちたものであったりします。「朝鮮のことをある程度知っている人間が、中途半端に知ったことをすべてと思い込んでしまって、最も悪質な偏見の持ち主になることはよくあることです」という梶村先生の言葉は、まさしく「知韓派」などと呼ばれてもてはやされている「有識者」のことを言い表しているのではないでしょうか。

そのような「有識者」の言説がもてはやされる今だからこそ、『排外主義克服のための朝鮮史』がより多くの人に読まれてほしいと思います。

 

 

 

繰り返し流される「在日外国人の生活保護受給は憲法違反である」というデマについて

かねてよりネット上では、「在日外国人の生活保護受給は憲法違反である」という言説が、まことしやかに流されています。このような言説を流す人の中には公職経験者がいることから*1、どうやらこうした言説を信じてしまう人も少なくないようです。

しかしながら、これは最高裁平成26年7月18日判決*2を曲解した、間違った言説です。

たしかに、本判決は「外国人は……生活保護法に基づく保護の対象となるものではなく,同法に基づく受給権を有しない」と判示しています。しかし、ここで大事なのは、「法律の保護を受ける権利を有するか否か」と「法律上あるいは事実上権利を付与することが憲法に違反するか否か」とは別論点であり、最高裁は「法律の保護を受ける権利を有するか否か」についてしか判示していない、ということです。

もしかすると、「外国人は法律の保護を受ける権利を有しないのだから、外国人が生活保護を受給することは当然違憲だろう」と思う人がいるかもしれません。ですが、それは誤解です。というのも、まずそもそも「憲法」と「法律」は異なるものです。すなわち、「憲法(の人権規定)」が人権を保障するものであるのに対して、「法律」は憲法による人権保障を具体化するべく法的権利を定め、あるいは憲法に抵触しないかぎりで人権を制約するものであります。これを「生活保護」に即して言えば、生存権という人権を保障したのが憲法25条であり、生存権の保障を具体化するべく生活保護を受給する法的権利を定めたのが生活保護法である、ということです。そして、(当然異論もありますが)生存権保障には財政的裏付けが必要であることから、生存権保障を実現するべく具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられている、と解するのが通説的見解です。

そうだとすると、立法府がその裁量によって「外国人は生活保護法に基づく保護の対象とならない」とする一方、「外国人は生活保護法に基づく保護の対象となる」とすることも、十分可能なのです。もし、「外国人は生活保護法に基づく保護の対象となる」とすることは憲法に違反するというのであれば、憲法が「外国人は生活保護法に基づく保護の対象となる」とすることを禁じている(私見としては、憲法が「外国人は生活保護法に基づく保護の対象となる」とすることを禁じていると解するのは、憲法生存権を保障した本来の趣旨に鑑みれば疑問ですが)ということを、別途論証することが必要でしょう。しかるに、それを論証することなく「外国人は法律の保護を受ける権利を有しないのだから、外国人が生活保護を受給することは当然違憲だろう」と考えるのは、論理の飛躍であると言わざるを得ません。

以上のように、「法律上権利を有しない」ということは、決して「法律によって権利を認めることが憲法に違反する」ということを意味するものではありません。このことを理解する上で、外国人の地方参政権について判示した最高裁平成7年2月28日判決*3の判旨が参考になるのではないかと思います。すなわち、最高裁平成7年2月28日判決は、参政権の保障は日本に在留する外国人には及ばない(外国人の参政権憲法上保障されていない)ものの、地方自治の趣旨に鑑みれば、日本に在留する外国人のうちでも永住者等について、法律をもって地方参政権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない(定住外国人に法律で選挙権を付与することは憲法上禁止されていない)と判示しています。つまり、たとえ憲法上は権利が保障されていないとしても、憲法上禁止されていないかぎり法律をもって権利を付与することは可能である、ということです。

そうだとして、最高裁平成26年7月18日判決は「外国人は……生活保護法に基づく保護の対象となるものではない」と判示するにとどまり、生活保護法で外国人に生活保護受給権を付与することが憲法上禁止されているか否かについては判示していません(なお、本判決は「行政庁の通達等に基づく行政措置により事実上の保護の対象となり得る」ことを肯定しています。)。したがって、本判決を根拠に「在日外国人の生活保護受給は憲法違反である」と言うのは、やはり間違いだと言わざるを得ません。

それにしても、どうしてこのような言説が繰り返し流されるのでしょうか。思うに、それは単なる誤解に基づくものではなく、民族差別を煽る悪意をもって流されています。それゆえ、このような「デマ」に煽られる人が一人でも減って欲しいと思い、本稿をしたためた次第です。

 

 

 

*1:最高裁が外国人の生活保護受給に違憲判決」は誤り 元自民北海道議のツイートを厚労省は否定 https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/seikatuhogo-debunk?utm_term=.yvP9RoaY8

*2:荻上チキ・Session-22│「永住外国人生活保護訴訟 最高裁判決」判決文(全文掲載) http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/07/post-299.html

*3:最高裁平成7年2月28日判決 http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/525/052525_hanrei.pdf

私は権力による不当な表現規制には反対だ。だが、ヘイトスピーチは絶対に許さない。

漫画やアニメなどといった創作物、その中でもとりわけエロティックな表現の規制に反対する人の中には、「漫画やアニメなどの『表現の自由』を守るためには、ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」と考える人が見受けられます。

私は、権力による不当な表現規制には反対する立場です。ですが、「ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」という言説には、到底賛同できません。

果たして、エロティックな表現を守るためには「ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」と主張する人は、エロティックな表現とヘイトスピーチを同列のものと考えているのでしょうか。もしそうであるならば、なぜ憲法が「表現の自由」を人権として保障するのか、ちょっと考えてみてください。

憲法が「表現の自由」を人権として保障するのは、表現の自由が、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値である「自己統治の価値」と、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値である「自己実現の価値」を有しているからであり、そしてそれは、究極的には「個人の尊厳」を確保するためのものだといえます。しかるに、「ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」と考えるのは、人間の尊厳を踏み躙る、いわば「暴力」であるヘイトスピーチが、自己の人格を発展させるどころかむしろ退廃堕落させるものであることに鑑みれば、憲法が「表現の自由」を人権として保障した趣旨に悖るものと言わざるを得ないでしょう。

他方、創作におけるエロティックな表現は、「人間の生」を描く上で重要な役割を果たすものといえます。そして、これまで生み出されてきた数々の作品によって、そのことが証明されていると言えるでしょう(私はここで、「高尚な芸術作品だけが、憲法で保障される「表現」としての資格を有する」などと言うつもりは毛頭ありません。なぜなら、憲法で保障される「表現」か否かにおいて、「高尚」か「低俗」かなどということは、そもそもナンセンスだからです。)。そうだとすれば、エロティックな表現も「自己実現」の価値に沿うものであって、憲法によってその表現の自由が保障されると考えるのが妥当です。

こうして、憲法が「表現の自由」を人権として保障した趣旨から考えてみれば、エロティックな表現とヘイトスピーチが同列のものではないことがお分かりになるでしょう。ですから、「漫画やアニメなどの『表現の自由』を守るためには、ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」などと考える必要などないのです。

もっとも、「ヘイトスピーチ規制の濫用によってエロティックな表現の自由が不当に制約される」ことを懸念する人もいるでしょう。しかし、それは規制法令の明確性の問題であって、ヘイトスピーチを「表現の自由」として保障しないことそれ自体の問題ではありません。また、規制法令の明確性は、たとえば児童ポルノ禁止法といったエロティックな表現を規制する法令においても問題となることであって、なにもヘイトスピーチ規制だけに限った話ではありません。そうだとすれば、「ヘイトスピーチ規制の濫用によってエロティックな表現の自由が不当に制約される」という懸念は、ヘイトスピーチを「表現の自由」として保障しないことを否定する理由とはならないでしょう。

そもそも、ヘイトスピーチ規制による表現の自由への影響を懸念しヘイトスピーチを許容する人は、どうしてヘイトスピーチを許容するのではなく拒絶することで表現の自由を守ろうと考えないのでしょうか。表現の自由の価値を損ねているのは、まぎれもなくヘイトスピーチです。そうだとすれば、ヘイトスピーチを拒絶することこそが、本当の意味で表現の自由を守ることなのではありませんか。

私は、権力による不当な表現規制には反対です。ですが、ヘイトスピーチは絶対に許しません。それは、ほかでもない、表現の自由を守るためにです。