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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

ヘイトスピーチを真に解消するために

前回のエントリの冒頭でも書きましたが、ヘイトスピーチ解消法の施行後も、在日コリアンに対するヘイトスピーチが各地で行われており、収束の兆しは一向に見えません。それゆえ、「ヘイトスピーチ解消法に罰則規定を……」との声もしばしば聞こえます。たしかに、ヘイトスピーチを効果的に抑制するには、ヘイトスピーチ解消法に罰則規定を設けるのもひとつの方法かもしれません。また、今後の状況次第では罰則規定を設けなければヘイトスピーチ解消法が画餅に帰すこともあり得るでしょう(そうならないためにも、私たちは何ができるか、何をすべきか考えることが大切なのです。)。しかしながら、民族差別的動機に基づく犯罪で刑に服した「活動家」が民族差別煽動に再び手を染めるという現実に鑑みると、ヘイトスピーチ解消法に罰則規定を設けることでヘイトスピーチを「抑制」することができても、はたして「解消」することができるかどうかは疑問です。

もちろん、現状に鑑みれば、ヘイトスピーチ解消法が必要であることについて異論はないでしょう。ですが、言うまでもなくヘイトスピーチ解消法は「対処療法」にすぎません。すなわち、ヘイトスピーチを真に解消するためには「原因療法」が必要だということです。

それでは、ヘイトスピーチの「根本的原因」はいったい何か?思うにそれは、日本政府による民族差別政策であり、あるいはマスメディアを通じた他民族蔑視煽動(それがどのようなものであるかは、「代表格」である産経「新聞」の「報道」を見れば分かるでしょう。)であり、そしてそれらの根底に横たわる「植民地主義」と「アジア(コリア)蔑視観」です。例えば、悪質な「7月9日在日強制送還デマ」*1についても、日本政府(法務省入国管理局)による民族差別的な入管行政が大きな要因であるといえます(だからといって、デマを流した人が免責されるということなど決してありませんが。)。また、朝鮮学校に対するヘイトスピーチヘイトクライムも、まさしく日本政府(と地方自治体)による民族差別的な教育行政に起因するものだといえます。その他にも、日本軍性奴隷問題に絡めたヘイトスピーチや強制徴用問題に絡めたヘイトスピーチといった日本政府による植民地支配と戦争犯罪の正当化に起因するものなど、日本政府の態度が「根本的原因」である例を挙げれば枚挙にいとまがありません。

結局のところ、ヘイトスピーチを真に解消するためには、日本政府が民族差別政策を改め、マスメディアを通じた他民族蔑視煽動をやめることです。そして、そのために何よりもまず、「日本」という国の「差別の構造」によって支配された私たち一人ひとりの「集合的無意識」を変えなければなりません。そこで特に大切なのは、「アジア(コリア)蔑視観」を克服することだと思います。それは決して不可能なことではありません。なぜなら、日本の民族排外主義は、日本人の「民族性」によるものなどではなく、権力によって作られたものだからです。梶村秀樹先生は言います。「日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。自然現象のような『民族性』ということばは絶望に通じていきかねない。」(梶村秀樹朝鮮民族解放闘争史と国際共産主義運動」1971年)

 

yukito-ashibe.hatenablog.com

 

 

今こそ読むべき「梶村秀樹」

www.heibonsha.co.jp

ヘイトスピーチ解消法の施行後も、在日コリアンに対するヘイトスピーチが各地で行われており、収束の兆しは一向に見えません。

それどころか、排外主義や民族差別はさらに深刻さを増しているように感じます。

つまるところ「日本」に蔓延る排外主義や民族差別は、単に「差別主義者」個人の問題にとどまるものではなく、「日本」という国の構造的な問題なのではないでしょうか。すなわち、民族差別問題を解決するためには、「日本」という国の「差別の構造」を変えなければならない。それとともに、構造によって支配された私たち一人ひとりの「集合的無意識」を変えなければならない。そのための指針を与えてくれるのが、戦後日本の朝鮮史研究のパイオニアであった梶村秀樹先生の『排外主義克服のための朝鮮史』です。

この本を読む上でひとつ注意しておきたいのは、この本は単に「知識」を得るためのものでは決してない、ということです。それでは、この本を読む意義はどこにあるか。思うにそれは、「日本」というこの「帝国」で生きている私たちが、「日本」というこの「帝国」で生きているうちに望むと望まざるとにかかわらず獲得した、自身の「コロン(植民者)のまなざし」を自覚し、それを克服することにあります。

少なくとも近代以降、「日本」という国とその国民は、「コリア蔑視観」によって国家的アイデンティティを保ち、あるいは「虚栄心」を肥大させてきました。残念ながら、日頃より人権の大切さや反戦を訴えているリベラル(もっとも、その定義は曖昧ですが)なマスメディアでさえも、この国では「コリア蔑視観」からは自由になれないようです。もちろん、この国で偶然にマジョリティとして生まれ、その状況を受け入れて生きてきた私自身も、例外ではありません。

「知韓派」などと呼ばれてもてはやされている「有識者」の中には、どうやら「いまさら、梶村秀樹でもないだろうにね!!(笑)」などと言う人もいるようです。ですが、そのようなことを臆面もなく言ってのける「有識者」は、梶村先生の問題意識を何一つ理解していないと言わざるを得ません。また、そのような「有識者」は、「歴史を学ぶ」ということの意義を、単に「知識」を得ることとしか考えていないのだと思います。そして、そのような「有識者」によって唱えられる言説の大体が、「コリア蔑視」に満ちたものであったりします。「朝鮮のことをある程度知っている人間が、中途半端に知ったことをすべてと思い込んでしまって、最も悪質な偏見の持ち主になることはよくあることです」という梶村先生の言葉は、まさしく「知韓派」などと呼ばれてもてはやされている「有識者」のことを言い表しているのではないでしょうか。

そのような「有識者」の言説がもてはやされる今だからこそ、『排外主義克服のための朝鮮史』がより多くの人に読まれてほしいと思います。

 

 

 

繰り返し流される「在日外国人の生活保護受給は憲法違反である」というデマについて

かねてよりネット上では、「在日外国人の生活保護受給は憲法違反である」という言説が、まことしやかに流されています。このような言説を流す人の中には公職経験者がいることから*1、どうやらこうした言説を信じてしまう人も少なくないようです。

ですが、これは最高裁平成26年7月18日判決*2を曲解した、間違った言説です。

たしかに、本判決は「外国人は……生活保護法に基づく保護の対象となるものではなく,同法に基づく受給権を有しない」と判示しています。

しかし、ここで大事なのは、「法律の保護を受ける権利を有するか否か」と「法律上あるいは事実上権利を付与することが憲法に違反するか否か」とは別論点であり、最高裁は「法律の保護を受ける権利を有するか否か」についてしか判示していない、ということです。

もしかすると、「外国人は法律の保護を受ける権利を有しないのだから、外国人が生活保護を受給することは当然違憲だろう」と思う人がいるかもしれません。ですが、それは誤解です。というのも、まずそもそも「憲法」と「法律」は異なるものです。すなわち、「憲法(の人権規定)」が人権を保障するものであるのに対して、「法律」は憲法による人権保障を具体化するべく法的権利を定め、あるいは憲法に抵触しないかぎりで人権を制約するものであります。これを「生活保護」に即して言えば、生存権という人権を保障したのが憲法25条であり、生存権の保障を具体化するべく生活保護を受給する法的権利を定めたのが生活保護法である、ということです。そして、(当然異論もありますが)生存権保障には財政的裏付けが必要であることから、生存権保障を実現するべく具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられている、と解するのが通説的見解です。

そうだとすると、立法府がその裁量によって「外国人は生活保護法に基づく保護の対象とならない」とする一方、「外国人は生活保護法に基づく保護の対象となる」とすることも、十分可能なのです。もし、「外国人は生活保護法に基づく保護の対象となる」とすることは憲法に違反するというのであれば、憲法が「外国人は生活保護法に基づく保護の対象となる」とすることを禁じている(私見としては、憲法が「外国人は生活保護法に基づく保護の対象となる」とすることを禁じていると解するのは、憲法生存権を保障した本来の趣旨に鑑みれば疑問ですが)ということを、別途論証することが必要でしょう。しかるに、それを論証することなく「外国人は法律の保護を受ける権利を有しないのだから、外国人が生活保護を受給することは当然違憲だろう」と考えるのは、論理の飛躍であると言わざるを得ません。

以上のように、「法律上権利を有しない」ということは、決して「法律によって権利を認めることが憲法に違反する」ということを意味するものではありません。このことを理解する上で、外国人の地方参政権について判示した最高裁平成7年2月28日判決*3の判旨が参考になるのではないかと思います。すなわち、最高裁平成7年2月28日判決は、参政権の保障は日本に在留する外国人には及ばない(外国人の参政権憲法上保障されていない)ものの、地方自治の趣旨に鑑みれば、日本に在留する外国人のうちでも永住者等について、法律をもって地方参政権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない(定住外国人に法律で選挙権を付与することは憲法上禁止されていない)と判示しています。つまり、たとえ憲法上は権利が保障されていないとしても、憲法上禁止されていないかぎり法律をもって権利を付与することは可能である、ということです。

翻って最高裁平成26年7月18日判決を見るに、本判決は「外国人は……生活保護法に基づく保護の対象となるものではない」と判示するにとどまり、生活保護法で外国人に生活保護受給権を付与することが憲法上禁止されているか否かについては判示していません(なお、本判決は「行政庁の通達等に基づく行政措置により事実上の保護の対象となり得る」ことを肯定しています。)。したがって、本判決を根拠に「在日外国人の生活保護受給は憲法違反である」と言うのは、やはり間違いだと言わざるを得ません。

それにしても、どうしてこのような言説が繰り返し流されるのでしょうか。思うにそれは、単なる誤解に基づくものではなく、民族差別を煽る悪意をもって流されています。それゆえ、このような「デマ」に煽られる人が一人でも減って欲しいと思い、本稿をしたためた次第です。

 

 

 

*1:最高裁が外国人の生活保護受給に違憲判決」は誤り 元自民北海道議のツイートを厚労省は否定 https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/seikatuhogo-debunk?utm_term=.yvP9RoaY8

*2:荻上チキ・Session-22│「永住外国人生活保護訴訟 最高裁判決」判決文(全文掲載) http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/07/post-299.html

*3:最高裁平成7年2月28日判決 http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/525/052525_hanrei.pdf

私は権力による不当な表現規制には反対だ。だが、ヘイトスピーチは絶対に許さない。

漫画やアニメなどといった創作物、その中でもとりわけエロティックな表現の規制に反対する人の中には、「漫画やアニメなどの『表現の自由』を守るためには、ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」と考える人が見受けられます。

私は、権力による不当な表現規制には反対する立場です。ですが、「ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」という言説には、到底賛同できません。

果たして、エロティックな表現を守るためには「ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」と主張する人は、エロティックな表現とヘイトスピーチを同列のものと考えているのでしょうか。もしそうであるならば、なぜ憲法が「表現の自由」を人権として保障するのか、ちょっと考えてみてください。

憲法が「表現の自由」を人権として保障するのは、表現の自由が、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値である「自己統治の価値」と、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値である「自己実現の価値」を有しているからであり、そしてそれは、究極的には「個人の尊厳」を確保するためのものだといえます。しかるに、「ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」と考えるのは、人間の尊厳を踏み躙る、いわば「暴力」であるヘイトスピーチが、自己の人格を発展させるどころかむしろ退廃堕落させるものであることに鑑みれば、憲法が「表現の自由」を人権として保障した趣旨に悖るものと言わざるを得ないでしょう。

他方、創作におけるエロティックな表現は、「人間の生」を描く上で重要な役割を果たすものといえます。そして、これまで生み出されてきた数々の作品によって、そのことが証明されていると言えるでしょう(私はここで、「高尚な芸術作品だけが、憲法で保障される「表現」としての資格を有する」などと言うつもりは毛頭ありません。なぜなら、憲法で保障される「表現」か否かにおいて、「高尚」か「低俗」かなどということは、そもそもナンセンスだからです。)。そうだとすれば、エロティックな表現も「自己実現」の価値に沿うものであって、憲法によってその表現の自由が保障されると考えるのが妥当です。

こうして、憲法が「表現の自由」を人権として保障した趣旨から考えてみれば、エロティックな表現とヘイトスピーチが同列のものではないことがお分かりになるでしょう。ですから、「漫画やアニメなどの『表現の自由』を守るためには、ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」などと考える必要などないのです。

もっとも、「ヘイトスピーチ規制の濫用によってエロティックな表現の自由が不当に制約される」ことを懸念する人もいるでしょう。しかし、それは規制法令の明確性の問題であって、ヘイトスピーチを「表現の自由」として保障しないことそれ自体の問題ではありません。また、規制法令の明確性は、たとえば児童ポルノ禁止法といったエロティックな表現を規制する法令においても問題となることであって、なにもヘイトスピーチ規制だけに限った話ではありません。そうだとすれば、「ヘイトスピーチ規制の濫用によってエロティックな表現の自由が不当に制約される」という懸念は、ヘイトスピーチを「表現の自由」として保障しないことを否定する理由とはならないでしょう。

そもそも、ヘイトスピーチ規制による表現の自由への影響を懸念しヘイトスピーチを許容する人は、どうしてヘイトスピーチを許容するのではなく拒絶することで表現の自由を守ろうと考えないのでしょうか。表現の自由の価値を損ねているのは、まぎれもなくヘイトスピーチです。そうだとすれば、ヘイトスピーチを拒絶することこそが、本当の意味で表現の自由を守ることなのではありませんか。

私は、権力による不当な表現規制には反対です。ですが、ヘイトスピーチは絶対に許しません。それは、ほかでもない、表現の自由を守るためにです。

 

「日本スゴイ」批判試論

昨今の日本社会に蔓延する、いわゆる「日本スゴイ」言説に関しては、これによって自尊心をくすぐられる人がいる一方で、このような風潮の広がりを憂慮する人も決して少なくはないと思います。私は後者の立場ですが、しかし、このような立場をとる私を「日本スゴイ」に陶酔する彼らはきっと、「オマエは日本が嫌いなのか」と非難するでしょう。

彼らの言う「日本」がいかなるものであるか、残念ながら私には分かりませんし、形而上学的な「日本」を好きだとか嫌いだとか、そういう話にはまったく興味ありません。

私が昨今の「日本」を自画自賛する風潮の広がりを憂慮するのは、すでに多くの人が指摘していますが、そのような風潮の広がりが(いま私が生きているこの)「日本社会」の健全な発展を妨げるからであり、また、「日本スゴイ」言説は排外主義や偏狭なナショナリズムと結びつきやすい側面をもっているからです。

たしかに、科学技術やポップカルチャーなど「日本」の「スゴイ」部分があることは、私も否定しません。しかし、そのような「日本」の「スゴイ」部分は、それこそ有史以来、先人たちが異なる文化をもつ「他者」から「学」んできた賜物であることを、やはり忘れてはなりません。しかるに、「世界が驚いた日本!日本の○○は世界一!日本はもう他国から学ぶことなど何もない。むしろ世界はいまこそ日本に学べ!」と慢心し他者から学ぶことをやめてしまっては、「日本」はやがて衰退の道をたどるでしょう。

残念ながら昨今の日本では誤解している人が少なくないようですが、異なる文化をもつ「他者」から「学ぶ」ことは、決して卑屈な態度ではありません。それは「自分を(いまの自分よりも)高める」ことであって、卑屈な態度であるどころかむしろ(客観的に見て)誇らしいことであるといえるのではないでしょうか。

また、「学ぶ」ということは、決して他者を見下すためにするものではありません。この点、近代以降の「日本」が「西洋」から文明を学んだのは、残念ながら(「西洋」対する劣等感の裏返しとして)「アジア」を見下すためでもありました。現代でもなお、「日本」が「中国」や「韓国」といった同じアジアの国の人々から「学ぶ」ことを忌避する傾向にあるのは、「中国」や「韓国」といった同じアジアの国に対する蔑視観を克服できずにいるからだといえるでしょう。

「日本」がこれまで「中国」や「朝鮮」といった同じアジアの国の人々から多くのことを学んできたということは、歴史が語るところです。そして、「日本」が「中国」や「韓国(朝鮮)」といった同じアジアの国の人々から学ぶことの大切さは今も変わりません(アジアに限らず、世界中の人々から学ぶことが大切であることは言うまでもありません。)。それは、どちらが優れ、どちらが劣っているかなどということでは決してありません。歌の文句ではありませんが、お互いに良いところを学び合い、似通った課題についてはそれぞれの得意分野を持ち寄りながら協力して解決にあたる、それでよいのではないでしょうか。

なお、かつて朝鮮の若者たちは、「自分を(いまの自分よりも)高める」べく、朝鮮に先んじて西洋文明を取り入れた日本に学ぼうとしました。しかるに、そのような朝鮮の若者たちの心を利用し踏みにじったという点でも、日本の朝鮮に対する植民地支配は卑劣極まりないものだと言わざるを得ないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

日本維新の会の「立憲主義」理解のどこがおかしいか、いち市民として私なりに検討してみた。

衆院憲法審査会 立憲主義憲法改正の限界・違憲立法審査の在り方について

朝日新聞デジタル

http://www.asahi.com/articles/DA3S12674657.html

 

先般開かれた衆議院憲法審査会での「立憲主義」に関する日本維新の会の意見表明に、私は違和感を覚えざるを得ませんでした。しかしながら、もしかすると安倍政権が進めようとしている憲法改正を支持する人には、日本維新の会の意見表明は説得的に感じられたのかもしれません。

そこで、本稿では日本維新の会の「立憲主義」理解のどこがおかしいか、いち市民として私なりに検討してみることとします。

まず、日本維新の会の足立氏は「そもそも『近代立憲主義』とは、多様な価値観の共存という大目的のために、権力の分立によって権力を制限するという考え方である」と述べています。かかる言説は、一見正論のようです。しかし、「近代立憲主義」の大目的が「多様な価値観の共存」というのは正しくありません。そもそも「近代立憲主義」は、どうして「多様な価値観の共存」を確保しようとしたのでしょうか。それは、「個人の尊厳」を確保するためです。つまり、「近代立憲主義」の究極の目的は、「個人の尊厳」を確保することにあります。フランス人権宣言や国際連合憲章、世界人権宣言、ドイツ連邦共和国基本法、そして日本国憲法が人間の尊厳(個人の尊厳)を基本原理としているのも、その表れです。

そうだとすれば、現行憲法の「平和主義」は「個人の尊厳」を確保するためのものであることからして、それは「近代立憲主義」の趣旨に合致する原理であるといえます。したがって、「近代立憲主義の大目的」に関する言説に続く「『徹底した平和主義』という現行憲法の基本理念は、いわば近代立憲主義の例外として、まさに特定の価値観を憲法に規定し、それを固定化する試みである」とする言説も、やはり正しくありません。

このように、日本維新の会の「立憲主義」理解は不正確なものであり、しかるに形式的には野党であるものの安倍政権が進めようとしている憲法改正に親和的であって実質的には与党と言っても過言ではない日本維新の会が、そのような不正確な理解に基づく主張を「数の力」をもってして押し通そうとすることこそが、むしろ「立憲主義の破壊」だと言えるのではないでしょうか。また、足立氏は誤解しているようですが、正しくない言説をも許容する(そして、最終的には「数の力」をもってして正しい言説としてしまう)ことが(民主主義における)「自由闊達な議論」の目的ではありません。日本維新の会が不正確な理解に基づく主張をするのは自由ですが、そのような正しくない言説を淘汰することこそが、まさしく「自由闊達な議論」の目的なのです。

つぎに、足立氏は「安保法制を戦争法呼ばわりし、政府与党を『立憲主義にもとる』と批判しても何も生まれない。最高裁統治行為論を採る限り、内閣の憲法解釈と国会の多数派が成立せしめた法律に対抗する術はないからである。我が党は、次になすべきこととして、機能不全を起こしている違憲審査制度の見直し、すなわち『憲法裁判所の創設』を提案したのである」と、安保法制に対する批判に対する反論と絡めて違憲審査制について述べています。しかし、残念ながら足立氏(日本維新の会)は、違憲審査制についても理解が不十分であると言わざるを得ません。かかる理解不足は、やはり「立憲主義理解」が不正確であることに起因するものであるといえるでしょう。

すなわち、「国民の代表機関」である国会で多数決によって制定される法律は、まさしく「多数派の意思の表れ」であるといえます。かかる「多数派の意思の表れ」といえども憲法に違背するならば無効であるとされるのは、多数派による少数派の人権侵害を防ぐ趣旨です。そして、その趣旨を実現するために司法裁判所に与えられた権限が、違憲審査権です。つまり、違憲審査制の趣旨は「立憲主義」の目的である「個人の尊厳を確保すること」にあります。しかるに、日本維新の会の見解のように、「安保法制」という「多数派の意思の表れ」を正当化するために違憲審査制を援用し、あたかも違憲審査制が「多数派の意思の表れ」である法律に正当性を与える権限であるかのように解するのは、違憲審査制の趣旨についての理解不足による不正確なものであると言わざるを得ないでしょう。また、足立氏が安保法制を正当化するために現行の違憲審査制を“攻撃”するべく援用している「統治行為論」は、民主主義の観点から国民に対して政治的責任を負う政府、国会といった政治部門の判断を尊重するものとする理論であって、むしろ安保法制にとって有利なものだといえます。そうだとすれば、足立氏が安保法制を正当化するために現行の違憲審査制を“攻撃”するべく「統治行為論」を援用することは不適切であり、はたして足立氏が「統治行為論」について十分に理解しているかどうか、甚だ疑問です。

以上のように、衆議院憲法審査会での「立憲主義」に関する日本維新の会の意見は、「立憲主義」の不十分な理解に基づく誤謬に満ちたものであるといえます。このような意見が公党によって臆面もなく表明されるような状況では、まともな「改憲論議」など到底期待できないでしょう。

 

参考資料

第192回国会 衆議院憲法審査会 第3回 会議日誌

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/192-11-24.htm

 

 

 

 

表現の自由に関する自民党改憲草案の問題点は、いったいどこにあるのか。

東京新聞:表現の自由に制約「当然」 自民、改憲草案撤回せず:政治(TOKYO Web) http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016112590070454.html

 

東京新聞のこの報道により、インターネット上では自民党改憲草案に対して批判の声が多く上がっています。

たしかに、中谷氏が自民党を代表して示した見解はもちろん、自民党改憲草案そのものも批判されてしかるべきものです。

ですが、私は、「表現の自由に制約『当然』」というこの報道の見出しと、これに基づく批判に、どうも違和感を覚えます。

それというのも、表現の自由が制限されることそれ自体が問題であるかのような印象を読者に与えるこの見出しは、表現の自由が絶対無制限であるとの誤解を招きかねないからです。

誤解のないようにお断りしておきますが、私は別に表現規制に関する自民党の見解や改憲草案を擁護したいわけではありません。表現の自由に関する自民党改憲草案の問題とヘイトスピーチ規制に関する問題をこじつけ、反差別を揶揄する「詭弁使い」が現れることを、私は危惧しているのです。

さて、それでは表現の自由に関する自民党改憲草案の問題点は、いったいどこにあるのでしょうか。

思うに、それは「制約根拠」にあります。

現行憲法においても、表現の自由は絶対無制限ではなく、憲法規定にかかわらず全ての人権に論理必然的に内在する「公共の福祉」によって制約される、と考えるのが通説です。かかる通説によれば、表現の自由を制約できるのは、他者の人権との矛盾・衝突を調整する限りにおいてです。
他方、自民党改憲草案は規定を新たに設け*、「公益及び公の秩序」維持により表現の自由を制約できるとしていますが、かかる「公益及び公の秩序」を根拠とすることは、〈個人〉と相互補完的関係にある概念である「公〈共〉」とは異なり〈個人〉とは対極的関係にある「公」という言葉からもわかるように、国家による恣意的かつ過度に広汎な制約を招くことにもつながりかねません。また、「公共の福祉」が「他者の人権との矛盾・衝突を調整する限りにおいて」というようにその制約の程度が客観的に定まっているのと比べて、「公益及び公の秩序」は国家当局の主観が入りやすいものであることを考えると、やはり表現の自由が不当に制限される危険は現行憲法に比べてきわめて高いといえるでしょう。

つまり、自民党改憲草案における表現の自由の保障は、表現の自由が「法律の範囲内に於いて」のみ許される(「表現の自由が『法律の範囲内に於いて』のみ許される」とは、裏を返せば法律によって表現の自由を容易に奪うことができるということであり、つまりは憲法による表現の自由の保障など画餅にすぎないということです)にすぎなかった大日本帝国憲法におけるそれと実質的に異ならない、ということです。

このように、自民党改憲草案は、時代の変化に対応したものであるどころかむしろ時代に逆行するものであり、そしてそれは表現の自由の保障に限った話ではなく、全体的に見て現行憲法が立脚する「個人の尊厳」を蔑ろにするものであって、およそ近代憲法の名に値しない代物であるといえます。

ただ、そうは言っても、やはり問題点を正確に把握して批判することが、批判に妥当性を持たせるためにも必要であると思い、本稿をしたためた次第です。

 

自民党憲法改正草案 第21条第2項

 前項の規定にかかわらず,公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い,並びにそれを目的として結社をすることは,認められない。