葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「日本スゴイ」批判試論

昨今の日本社会に蔓延する、いわゆる「日本スゴイ」言説に関しては、これによって自尊心をくすぐられる人がいる一方で、このような風潮の広がりを憂慮する人も決して少なくはないと思います。私は後者の立場ですが、しかし、このような立場をとる私を「日本スゴイ」に陶酔する彼らはきっと、「オマエは日本が嫌いなのか」と非難するでしょう。

彼らの言う「日本」がいかなるものであるか、残念ながら私には分かりませんし、形而上学的な「日本」を好きだとか嫌いだとか、そういう話にはまったく興味ありません。

私が昨今の「日本」を自画自賛する風潮の広がりを憂慮するのは、すでに多くの人が指摘していますが、そのような風潮の広がりが(いま私が生きているこの)「日本社会」の健全な発展を妨げるからであり、また、「日本スゴイ」言説は排外主義や偏狭なナショナリズムと結びつきやすい側面をもっているからです。

たしかに、科学技術やポップカルチャーなど「日本」の「スゴイ」部分があることは、私も否定しません。しかし、そのような「日本」の「スゴイ」部分は、それこそ有史以来、先人たちが異なる文化をもつ「他者」から「学」んできた賜物であることを、やはり忘れてはなりません。しかるに、「世界が驚いた日本!日本の○○は世界一!日本はもう他国から学ぶことなど何もない。むしろ世界はいまこそ日本に学べ!」と慢心し他者から学ぶことをやめてしまっては、「日本」はやがて衰退の道をたどるでしょう。

残念ながら昨今の日本では誤解している人が少なくないようですが、異なる文化をもつ「他者」から「学ぶ」ことは、決して卑屈な態度ではありません。それは「自分を(いまの自分よりも)高める」ことであって、卑屈な態度であるどころかむしろ(客観的に見て)誇らしいことであるといえるのではないでしょうか。

また、「学ぶ」ということは、決して他者を見下すためにするものではありません。この点、近代以降の「日本」が「西洋」から文明を学んだのは、残念ながら(「西洋」対する劣等感の裏返しとして)「アジア」を見下すためでもありました。現代でもなお、「日本」が「中国」や「韓国」といった同じアジアの国の人々から「学ぶ」ことを忌避する傾向にあるのは、「中国」や「韓国」といった同じアジアの国に対する蔑視観を克服できずにいるからだといえるでしょう。

「日本」がこれまで「中国」や「朝鮮」といった同じアジアの国の人々から多くのことを学んできたということは、歴史が語るところです。そして、「日本」が「中国」や「韓国(朝鮮)」といった同じアジアの国の人々から学ぶことの大切さは今も変わりません(アジアに限らず、世界中の人々から学ぶことが大切であることは言うまでもありません。)。それは、どちらが優れ、どちらが劣っているかなどということでは決してありません。歌の文句ではありませんが、お互いに良いところを学び合い、似通った課題についてはそれぞれの得意分野を持ち寄りながら協力して解決にあたる、それでよいのではないでしょうか。

なお、かつて朝鮮の若者たちは、「自分を(いまの自分よりも)高める」べく、朝鮮に先んじて西洋文明を取り入れた日本に学ぼうとしました。しかるに、そのような朝鮮の若者たちの心を利用し踏みにじったという点でも、日本の朝鮮に対する植民地支配は卑劣極まりないものだと言わざるを得ないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

日本維新の会の「立憲主義」理解のどこがおかしいか、いち市民として私なりに検討してみた。

衆院憲法審査会 立憲主義憲法改正の限界・違憲立法審査の在り方について

朝日新聞デジタル

http://www.asahi.com/articles/DA3S12674657.html

 

先般開かれた衆議院憲法審査会での「立憲主義」に関する日本維新の会の意見表明に、私は違和感を覚えざるを得ませんでした。しかしながら、もしかすると安倍政権が進めようとしている憲法改正を支持する人には、日本維新の会の意見表明は説得的に感じられたのかもしれません。

そこで、本稿では日本維新の会の「立憲主義」理解のどこがおかしいか、いち市民として私なりに検討してみることとします。

まず、日本維新の会の足立氏は「そもそも『近代立憲主義』とは、多様な価値観の共存という大目的のために、権力の分立によって権力を制限するという考え方である」と述べています。かかる言説は、一見正論のようです。しかし、「近代立憲主義」の大目的が「多様な価値観の共存」というのは正しくありません。そもそも「近代立憲主義」は、どうして「多様な価値観の共存」を確保しようとしたのでしょうか。それは、「個人の尊厳」を確保するためです。つまり、「近代立憲主義」の究極の目的は、「個人の尊厳」を確保することにあります。フランス人権宣言や国際連合憲章、世界人権宣言、ドイツ連邦共和国基本法、そして日本国憲法が人間の尊厳(個人の尊厳)を基本原理としているのも、その表れです。

そうだとすれば、現行憲法の「平和主義」は「個人の尊厳」を確保するためのものであることからして、それは「近代立憲主義」の趣旨に合致する原理であるといえます。したがって、「近代立憲主義の大目的」に関する言説に続く「『徹底した平和主義』という現行憲法の基本理念は、いわば近代立憲主義の例外として、まさに特定の価値観を憲法に規定し、それを固定化する試みである」とする言説も、やはり正しくありません。

このように、日本維新の会の「立憲主義」理解は不正確なものであり、しかるに形式的には野党であるものの安倍政権が進めようとしている憲法改正に親和的であって実質的には与党と言っても過言ではない日本維新の会が、そのような不正確な理解に基づく主張を「数の力」をもってして押し通そうとすることこそが、むしろ「立憲主義の破壊」だと言えるのではないでしょうか。また、足立氏は誤解しているようですが、正しくない言説をも許容する(そして、最終的には「数の力」をもってして正しい言説としてしまう)ことが(民主主義における)「自由闊達な議論」の目的ではありません。日本維新の会が不正確な理解に基づく主張をするのは自由ですが、そのような正しくない言説を淘汰することこそが、まさしく「自由闊達な議論」の目的なのです。

つぎに、足立氏は「安保法制を戦争法呼ばわりし、政府与党を『立憲主義にもとる』と批判しても何も生まれない。最高裁統治行為論を採る限り、内閣の憲法解釈と国会の多数派が成立せしめた法律に対抗する術はないからである。我が党は、次になすべきこととして、機能不全を起こしている違憲審査制度の見直し、すなわち『憲法裁判所の創設』を提案したのである」と、安保法制に対する批判に対する反論と絡めて違憲審査制について述べています。しかし、残念ながら足立氏(日本維新の会)は、違憲審査制についても理解が不十分であると言わざるを得ません。かかる理解不足は、やはり「立憲主義理解」が不正確であることに起因するものであるといえるでしょう。

すなわち、「国民の代表機関」である国会で多数決によって制定される法律は、まさしく「多数派の意思の表れ」であるといえます。かかる「多数派の意思の表れ」といえども憲法に違背するならば無効であるとされるのは、多数派による少数派の人権侵害を防ぐ趣旨です。そして、その趣旨を実現するために司法裁判所に与えられた権限が、違憲審査権です。つまり、違憲審査制の趣旨は「立憲主義」の目的である「個人の尊厳を確保すること」にあります。しかるに、日本維新の会の見解のように、「安保法制」という「多数派の意思の表れ」を正当化するために違憲審査制を援用し、あたかも違憲審査制が「多数派の意思の表れ」である法律に正当性を与える権限であるかのように解するのは、違憲審査制の趣旨についての理解不足による不正確なものであると言わざるを得ないでしょう。また、足立氏が安保法制を正当化するために現行の違憲審査制を“攻撃”するべく援用している「統治行為論」は、民主主義の観点から国民に対して政治的責任を負う政府、国会といった政治部門の判断を尊重するものとする理論であって、むしろ安保法制にとって有利なものだといえます。そうだとすれば、足立氏が安保法制を正当化するために現行の違憲審査制を“攻撃”するべく「統治行為論」を援用することは不適切であり、はたして足立氏が「統治行為論」について十分に理解しているかどうか、甚だ疑問です。

以上のように、衆議院憲法審査会での「立憲主義」に関する日本維新の会の意見は、「立憲主義」の不十分な理解に基づく誤謬に満ちたものであるといえます。このような意見が公党によって臆面もなく表明されるような状況では、まともな「改憲論議」など到底期待できないでしょう。

 

参考資料

第192回国会 衆議院憲法審査会 第3回 会議日誌

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/192-11-24.htm

 

 

 

 

表現の自由に関する自民党改憲草案の問題点は、いったいどこにあるのか。

東京新聞:表現の自由に制約「当然」 自民、改憲草案撤回せず:政治(TOKYO Web) http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016112590070454.html

 

東京新聞のこの報道により、インターネット上では自民党改憲草案に対して批判の声が多く上がっています。

たしかに、中谷氏が自民党を代表して示した見解はもちろん、自民党改憲草案そのものも批判されてしかるべきものです。

ですが、私は、「表現の自由に制約『当然』」というこの報道の見出しと、これに基づく批判に、どうも違和感を覚えます。

それというのも、表現の自由が制限されることそれ自体が問題であるかのような印象を読者に与えるこの見出しは、表現の自由が絶対無制限であるとの誤解を招きかねないからです。

誤解のないようにお断りしておきますが、私は別に表現規制に関する自民党の見解や改憲草案を擁護したいわけではありません。表現の自由に関する自民党改憲草案の問題とヘイトスピーチ規制に関する問題をこじつけ、反差別を揶揄する「詭弁使い」が現れることを、私は危惧しているのです。

さて、それでは表現の自由に関する自民党改憲草案の問題点は、いったいどこにあるのでしょうか。

思うに、それは「制約根拠」にあります。

現行憲法においても、表現の自由は絶対無制限ではなく、憲法規定にかかわらず全ての人権に論理必然的に内在する「公共の福祉」によって制約される、と考えるのが通説です。かかる通説によれば、表現の自由を制約できるのは、他者の人権との矛盾・衝突を調整する限りにおいてです。
他方、自民党改憲草案は規定を新たに設け*、「公益及び公の秩序」維持により表現の自由を制約できるとしていますが、かかる「公益及び公の秩序」を根拠とすることは、〈個人〉と相互補完的関係にある概念である「公〈共〉」とは異なり〈個人〉とは対極的関係にある「公」という言葉からもわかるように、国家による恣意的かつ過度に広汎な制約を招くことにもつながりかねません。また、「公共の福祉」が「他者の人権との矛盾・衝突を調整する限りにおいて」というようにその制約の程度が客観的に定まっているのと比べて、「公益及び公の秩序」は国家当局の主観が入りやすいものであることを考えると、やはり表現の自由が不当に制限される危険は現行憲法に比べてきわめて高いといえるでしょう。

つまり、自民党改憲草案における表現の自由の保障は、表現の自由が「法律の範囲内に於いて」のみ許される(「表現の自由が『法律の範囲内に於いて』のみ許される」とは、裏を返せば法律によって表現の自由を容易に奪うことができるということであり、つまりは憲法による表現の自由の保障など画餅にすぎないということです)にすぎなかった大日本帝国憲法におけるそれと実質的に異ならない、ということです。

このように、自民党改憲草案は、時代の変化に対応したものであるどころかむしろ時代に逆行するものであり、そしてそれは表現の自由の保障に限った話ではなく、全体的に見て現行憲法が立脚する「個人の尊厳」を蔑ろにするものであって、およそ近代憲法の名に値しない代物であるといえます。

ただ、そうは言っても、やはり問題点を正確に把握して批判することが、批判に妥当性を持たせるためにも必要であると思い、本稿をしたためた次第です。

 

自民党憲法改正草案 第21条第2項

 前項の規定にかかわらず,公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い,並びにそれを目的として結社をすることは,認められない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘイトスピーチをやめよう、「自由な人間」であるならば。

ヘイトスピーチ解消法の施行後も、相変わらずヘイトスピーチは後を絶ちません。そしてまた、誰にも邪魔されることもなく、好き勝手にヘイトスピーチを撒き散らすことも「表現の自由」である、と考えている人が少なからず見受けられるのも相変わらずです。

たしかに、<他なる力>によって妨げられることなく、自らの意思によって思想信条を外部に表明することは、まさしく「表現の自由」です。

しかし、それは思うにあくまでも「表現の自由」の一つの側面にすぎません。すなわち、「表現の自由」の根源的価値は「個人の尊厳」であって、それゆえに表現行為をするにあたっては、「個人の尊厳」を傷つけない配慮が求められます。しかるに、他者の「個人の尊厳」を傷つけないよう自らの意思によって表現行為を制御できないのであれば、表現行為は<他なる力>によって抑制されざるをえないでしょう。つまり、<他なる力>によって妨げられることなく、自らの意思によって思想信条を外部に表明することばかりでなく、自らの意思によって他者の「個人の尊厳」を傷つけるような表現行為を抑制することもまた、「表現の自由」なのです。

そうだとすれば、誰にも邪魔されることもなく、好き勝手にヘイトスピーチを撒き散らすことも「表現の自由」である、などという言説が誤りであることは、もはや明白でしょう。

自らの表現行為が他者の「個人の尊厳」を傷つけるような許されないものであるかどうか、自ら是非を弁別することができずヘイトスピーチを撒き散らし続けるということは、「自由な人間であること」を放棄するものです。さらにいえば、それは「尊厳ある人間であること」を放棄するものです。尊厳ある、自由な人間として生きるためにも、ヘイトスピーカー諸氏はヘイトスピーチを即刻やめるべきです。

 

「トランプ氏の勝因は、行き過ぎたポリコレへの反発」などではない。

トランプ氏勝利後、数え切れないほどのヘイトクライムが全米に広がる http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/11/hate-since-trump-win_n_12921794.html

 

このほど行われたアメリカ合衆国大統領選挙では、ドナルド・トランプ氏が当選しました。ご存知のようにトランプ氏は、これまでイスラム教徒や移民への排外主義的な発言などで物議をかもしてきました。それゆえか、トランプ氏の勝因について「行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの反発だ」などという言説がまことしやかに語られています。

しかしながら、そのような言説は正しくありません。

思うに、トランプ氏の「勝因」は、「行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの反発」などではありません。トランプ氏を生み出したのは、紛れもなくネオリベラリズムあるいはグローバリズム(という名の現代帝国主義)です。つまり、トランプ氏という「メシア」の出現を渇望し、トランプ氏の勝利を後押ししたのは「(ネオリベラリズムあるいはグローバリズムの犠牲者である)弱者」の怨念が他の「弱者」に向けられるという「歪んだルサンチマン」です。そして、そのような「歪んだルサンチマン」が社会に蔓延している点では、日本も例外ではありません。

しかるに、「歪んだルサンチマン」を生み出す要因を看過し、「歪んだルサンチマン」に支えられた「排外主義的価値観(ここはあえて「価値」という言葉を使いたいと思います)の勝利」という事象だけを切り取って「トランプ氏の『勝因』は、行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの反発だ」などとする論評は、浅薄に過ぎると言わざるを得ません。

このような「反ポリコレ勝利」論批判に対して「反ポリコレ勝利」論者は、おそらく「行き過ぎたポリティカル・コレクトネスに反発しているのは経済的・社会的弱者だけではない。経済的・社会的強者もそれには反発している」と反論するでしょう。しかしながら、「経済的・社会的強者」もネオリベラリズムあるいはグローバリズムによって生み出される「不安」に怯える者であるという点で、やはり「弱者」にほかならないのではないでしょうか。そしてまた、「反ポリコレの勝利」だなどと言うこと自体が、己の不安あるいは苦悩の原因を「マイノリティによるプロテスト」に求めるような「歪んだルサンチマン」の発露にほかなりません。

もっとも、ネオリベラリズムあるいはグローバリズムと排外主義的なナショナリズムとの「共犯関係」については、これまでも多くの識者によって繰り返し語られてきました。それにもかかわらず、「批評家」諸氏によって「トランプ氏の『勝因』は、行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの反発だ」などという言説がまことしやかに語られるのは、おそらくこのような言説に対する「消費者の需要」があるからだと思います。そうだとすれば、日本ではトランプ氏の勝利それ自体よりも、むしろ「トランプ氏の『勝因』は、行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの反発だ」などという言説に対する「消費者の需要」があることにこそ危機感を持つべきではないでしょうか。

 

 

 

本当に「選挙はベターチョイス」なのだろうか

しばしば見聞する言説に、「選挙はベターチョイス」である、というものがあります。

たしかに、現実問題として「ベストチョイス」することは大変難しいかもしれません。

しかし、やはり私は、「選挙はベターチョイス」である言説に疑問を覚えます。

どうして私たちは、「ベターチョイス」しかできない現状に甘んじてしまっているのでしょうか。

そうして、「選びようがない」ことを言い訳にして、「根本的な解決」を先送りしてきた結果が、今の「惨状」(もっとも、もしかすると「惨状」だと思っていない人も少なくないのかもしれませんが)なのではないでしょうか。

おそらく、私たちが「ベターチョイス」しかできない現状に甘んじてしまっているのは、「根本的に解決しなければならない問題」から目を背けてしまっていることのほかに、「民主主義=代議政治」であるという「固定観念」にとらわれてしまっていることによるものであると思います。

代議制民主主義はあくまでも民主主義のひとつの形態にすぎないのであって、それが民主主義のすべてではありません。そしてまた、選挙は主権行使のひとつの機会にすぎないのであって、それが主権行使のすべてではありません。

はたして、いつまでも私たちは「ベターチョイス」しかできない現状に甘んじてしまっていてよいのでしょうか。

「政治」は政治家や政党だけのものではありませんし、議会だけで行われるものでもありません。「政治」は、本来的には紛れもなく主権者たる「人民」すなわち私たちのものです。

そうであれば、主権者として、「ベターチョイス」しかできない現状に甘んずることなく、「ベストチョイス」するためにできることを一つひとつやっていくべきです。しかるに、「政治など私のものではない」と主権者であることを放棄するのであれば、それは自らを隷属的な地位に陥らしめることになるのですが、本当にそれでいいのですか。

もっとも、「主権者」に関していえば、私はこの言葉を使うことに戸惑いを覚えます。というのも、おそらく「日本は民主主義国家である」と言って憚らない人は少なくないでしょうが、残念ながら日本において民主主義が貫徹されているかどうかは、大いに疑わしいからです。すなわち、「治者と被治者の自同性」が民主主義の本質であるにもかかわらず、日本では制度上の理由によって(もっとも、それは制度上の理由というよりも、むしろ国家の存立に関わるイデオロギーによるものなのかもしれません)、「被治者」であるのに「治者」ではない市民が生み出されてしまっている、ということです。

「ぼくらの民主主義」を声高に唱えるのは結構ですが、その「ぼくらの民主主義」が「被治者」であるのに「治者」ではない市民が生み出すような欠陥制度であることを、やはり忘れてはならないと思います。

 

 

 

麦酒雑感

突然ですが、私はビールが好きです。

f:id:yukito_ashibe:20161029115628j:plainひとくちにビールと言ってもいろいろありますが、私はヘーフェヴァイツェンも、インディア・ペールエールも好きですし、もちろんオーソドックスな(オーソドックスな、と言ってしまう時点ですでに「固定観念」に囚われてしまっていますが)ピルスナースタイルのビールも好きです。

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日本では(というより、日本に限らず)、ご存知のようにピルスナースタイルが主流ですが、しかしそれゆえに、残念ながらベルジャンスタイルやエールタイプのビールを「不味い」と評する人も見受けられます。また、日本の大手メーカー5社のうち4社の主力商品がジャーマンスタイルであることから、ライトボディなアメリカンスタイルのラガーを「薄くて不味い」と評する人も見受けられます。もちろん、個人的な好みとしての「美味い・不味い」があるのは当然だと思います。しかし、客観的に「不味い」ビールなど、はたしてこの世にあるのでしょうか。

思うに、この世に「不味い」ビールがあるというのは正しくなく、私の好みに合わないビールがある、ただそれだけのことです。あるいは、そのビールを不味いと思うのは、そのビールが不味いからではなく、私がそのビールの飲み方を間違えているからなのかもしれません。日本の大手メーカーが醸造するピルスナースタイルのビールは、ある意味「優等生」です。その優等生ぶりは、特に食中酒として発揮されるように思います。某紅茶飲料の昔のCMの文句を借りて言えば、「どんな食事にも合う」というやつです。

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他方、ヘーフェヴァイツェンやスタウト、ペールエールは、結構「料理を選ぶ」ビールなのではないでしょうか。しかるに、ワインに関しては料理との相性にこだわるにもかかわらず、ビールに関しては料理との相性にこだわらないというのは、「とりあえずビール」の言葉に象徴されるように、なんとなくビールが軽んじられているような気がしてなりません。

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また、ライトボディなアメリカンスタイルのラガーは、思うにジャーマンスタイルのラガーのようにじっくりと重厚な味わいを楽しむものではなく、爽快なのどごしを楽しみ、そして渇いた身体(喉ではなく)を潤すものです。例えば、アジアの旅先で疲れた身体に流し込むライトボディなアジアンビールは、まさに至高の一杯だといえます。

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なお、私見ではありますが、アジアンビールが概ねライトボディなのは、モンスーンアジアの気候によるところもあるでしょうが、それのみならず、スパイシーでホットな料理と絶妙な相性だというのもあるのではないでしょうか。実際に私は、辛い料理には沖縄のオリオン、韓国のhite、ベトナムの333、タイのビアチャーン、シンガポールのタイガーなどをよく合わせますが、ビール単体で飲むよりも、アジアンビールならではフルーティーさが引き立つように感じられます。

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以上、ビールについて私の思うところを、とりとめもなく書き綴ってみました。

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