葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

ヘイトスピーチをやめよう、「自由な人間」であるならば。

ヘイトスピーチ解消法の施行後も、相変わらずヘイトスピーチは後を絶ちません。そしてまた、誰にも邪魔されることもなく、好き勝手にヘイトスピーチを撒き散らすことも「表現の自由」である、と考えている人が少なからず見受けられるのも相変わらずです。

たしかに、<他なる力>によって妨げられることなく、自らの意思によって思想信条を外部に表明することは、まさしく「表現の自由」です。

しかし、それは思うにあくまでも「表現の自由」の一つの側面にすぎません。すなわち、「表現の自由」の根源的価値は「個人の尊厳」であって、それゆえに表現行為をするにあたっては、「個人の尊厳」を傷つけない配慮が求められます。しかるに、他者の「個人の尊厳」を傷つけないよう自らの意思によって表現行為を制御できないのであれば、表現行為は<他なる力>によって抑制されざるをえないでしょう。つまり、<他なる力>によって妨げられることなく、自らの意思によって思想信条を外部に表明することばかりでなく、自らの意思によって他者の「個人の尊厳」を傷つけるような表現行為を抑制することもまた、「表現の自由」なのです。

そうだとすれば、誰にも邪魔されることもなく、好き勝手にヘイトスピーチを撒き散らすことも「表現の自由」である、などという言説が誤りであることは、もはや明白でしょう。

自らの表現行為が他者の「個人の尊厳」を傷つけるような許されないものであるかどうか、自ら是非を弁別することができずヘイトスピーチを撒き散らし続けるということは、「自由な人間であること」を放棄するものです。さらにいえば、それは「尊厳ある人間であること」を放棄するものです。尊厳ある、自由な人間として生きるためにも、ヘイトスピーカー諸氏はヘイトスピーチを即刻やめるべきです。

 

「トランプ氏の勝因は、行き過ぎたポリコレへの反発」などではない。

トランプ氏勝利後、数え切れないほどのヘイトクライムが全米に広がる http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/11/hate-since-trump-win_n_12921794.html

 

このほど行われたアメリカ合衆国大統領選挙では、ドナルド・トランプ氏が当選しました。ご存知のようにトランプ氏は、これまでイスラム教徒や移民への排外主義的な発言などで物議をかもしてきました。それゆえか、トランプ氏の勝因について「行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの反発だ」などという言説がまことしやかに語られています。

しかしながら、そのような言説は正しくありません。

思うに、トランプ氏の「勝因」は、「行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの反発」などではありません。トランプ氏を生み出したのは、紛れもなくネオリベラリズムあるいはグローバリズム(という名の現代帝国主義)です。つまり、トランプ氏という「メシア」の出現を渇望し、トランプ氏の勝利を後押ししたのは「(ネオリベラリズムあるいはグローバリズムの犠牲者である)弱者」の怨念が他の「弱者」に向けられるという「歪んだルサンチマン」です。そして、そのような「歪んだルサンチマン」が社会に蔓延している点では、日本も例外ではありません。

しかるに、「歪んだルサンチマン」を生み出す要因を看過し、「歪んだルサンチマン」に支えられた「排外主義的価値観(ここはあえて「価値」という言葉を使いたいと思います)の勝利」という事象だけを切り取って「トランプ氏の『勝因』は、行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの反発だ」などとする論評は、浅薄に過ぎると言わざるを得ません。

このような「反ポリコレ勝利」論批判に対して「反ポリコレ勝利」論者は、おそらく「行き過ぎたポリティカル・コレクトネスに反発しているのは経済的・社会的弱者だけではない。経済的・社会的強者もそれには反発している」と反論するでしょう。しかしながら、「経済的・社会的強者」もネオリベラリズムあるいはグローバリズムによって生み出される「不安」に怯える者であるという点で、やはり「弱者」にほかならないのではないでしょうか。そしてまた、「反ポリコレの勝利」だなどと言うこと自体が、己の不安あるいは苦悩の原因を「マイノリティによるプロテスト」に求めるような「歪んだルサンチマン」の発露にほかなりません。

もっとも、ネオリベラリズムあるいはグローバリズムと排外主義的なナショナリズムとの「共犯関係」については、これまでも多くの識者によって繰り返し語られてきました。それにもかかわらず、「批評家」諸氏によって「トランプ氏の『勝因』は、行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの反発だ」などという言説がまことしやかに語られるのは、おそらくこのような言説に対する「消費者の需要」があるからだと思います。そうだとすれば、日本ではトランプ氏の勝利それ自体よりも、むしろ「トランプ氏の『勝因』は、行き過ぎたポリティカル・コレクトネスへの反発だ」などという言説に対する「消費者の需要」があることにこそ危機感を持つべきではないでしょうか。

 

 

 

本当に「選挙はベターチョイス」なのだろうか

しばしば見聞する言説に、「選挙はベターチョイス」である、というものがあります。

たしかに、現実問題として「ベストチョイス」することは大変難しいかもしれません。

しかし、やはり私は、「選挙はベターチョイス」である言説に疑問を覚えます。

どうして私たちは、「ベターチョイス」しかできない現状に甘んじてしまっているのでしょうか。

そうして、「選びようがない」ことを言い訳にして、「根本的な解決」を先送りしてきた結果が、今の「惨状」(もっとも、もしかすると「惨状」だと思っていない人も少なくないのかもしれませんが)なのではないでしょうか。

おそらく、私たちが「ベターチョイス」しかできない現状に甘んじてしまっているのは、「根本的に解決しなければならない問題」から目を背けてしまっていることのほかに、「民主主義=代議政治」であるという「固定観念」にとらわれてしまっていることによるものであると思います。

代議制民主主義はあくまでも民主主義のひとつの形態にすぎないのであって、それが民主主義のすべてではありません。そしてまた、選挙は主権行使のひとつの機会にすぎないのであって、それが主権行使のすべてではありません。

はたして、いつまでも私たちは「ベターチョイス」しかできない現状に甘んじてしまっていてよいのでしょうか。

「政治」は政治家や政党だけのものではありませんし、議会だけで行われるものでもありません。「政治」は、本来的には紛れもなく主権者たる「人民」すなわち私たちのものです。

そうであれば、主権者として、「ベターチョイス」しかできない現状に甘んずることなく、「ベストチョイス」するためにできることを一つひとつやっていくべきです。しかるに、「政治など私のものではない」と主権者であることを放棄するのであれば、それは自らを隷属的な地位に陥らしめることになるのですが、本当にそれでいいのですか。

もっとも、「主権者」に関していえば、私はこの言葉を使うことに戸惑いを覚えます。というのも、おそらく「日本は民主主義国家である」と言って憚らない人は少なくないでしょうが、残念ながら日本において民主主義が貫徹されているかどうかは、大いに疑わしいからです。すなわち、「治者と被治者の自同性」が民主主義の本質であるにもかかわらず、日本では制度上の理由によって(もっとも、それは制度上の理由というよりも、むしろ国家の存立に関わるイデオロギーによるものなのかもしれません)、「被治者」であるのに「治者」ではない市民が生み出されてしまっている、ということです。

「ぼくらの民主主義」を声高に唱えるのは結構ですが、その「ぼくらの民主主義」が「被治者」であるのに「治者」ではない市民が生み出すような欠陥制度であることを、やはり忘れてはならないと思います。

 

 

 

麦酒雑感

突然ですが、私はビールが好きです。

f:id:yukito_ashibe:20161029115628j:plainひとくちにビールと言ってもいろいろありますが、私はヘーフェヴァイツェンも、インディア・ペールエールも好きですし、もちろんオーソドックスな(オーソドックスな、と言ってしまう時点ですでに「固定観念」に囚われてしまっていますが)ピルスナースタイルのビールも好きです。

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日本では(というより、日本に限らず)、ご存知のようにピルスナースタイルが主流ですが、しかしそれゆえに、残念ながらベルジャンスタイルやエールタイプのビールを「不味い」と評する人も見受けられます。また、日本の大手メーカー5社のうち4社の主力商品がジャーマンスタイルであることから、ライトボディなアメリカンスタイルのラガーを「薄くて不味い」と評する人も見受けられます。もちろん、個人的な好みとしての「美味い・不味い」があるのは当然だと思います。しかし、客観的に「不味い」ビールなど、はたしてこの世にあるのでしょうか。

思うに、この世に「不味い」ビールがあるというのは正しくなく、私の好みに合わないビールがある、ただそれだけのことです。あるいは、そのビールを不味いと思うのは、そのビールが不味いからではなく、私がそのビールの飲み方を間違えているからなのかもしれません。日本の大手メーカーが醸造するピルスナースタイルのビールは、ある意味「優等生」です。その優等生ぶりは、特に食中酒として発揮されるように思います。某紅茶飲料の昔のCMの文句を借りて言えば、「どんな食事にも合う」というやつです。

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他方、ヘーフェヴァイツェンやスタウト、ペールエールは、結構「料理を選ぶ」ビールなのではないでしょうか。しかるに、ワインに関しては料理との相性にこだわるにもかかわらず、ビールに関しては料理との相性にこだわらないというのは、「とりあえずビール」の言葉に象徴されるように、なんとなくビールが軽んじられているような気がしてなりません。

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また、ライトボディなアメリカンスタイルのラガーは、思うにジャーマンスタイルのラガーのようにじっくりと重厚な味わいを楽しむものではなく、爽快なのどごしを楽しみ、そして渇いた身体(喉ではなく)を潤すものです。例えば、アジアの旅先で疲れた身体に流し込むライトボディなアジアンビールは、まさに至高の一杯だといえます。

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なお、私見ではありますが、アジアンビールが概ねライトボディなのは、モンスーンアジアの気候によるところもあるでしょうが、それのみならず、スパイシーでホットな料理と絶妙な相性だというのもあるのではないでしょうか。実際に私は、辛い料理には沖縄のオリオン、韓国のhite、ベトナムの333、タイのビアチャーン、シンガポールのタイガーなどをよく合わせますが、ビール単体で飲むよりも、アジアンビールならではフルーティーさが引き立つように感じられます。

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以上、ビールについて私の思うところを、とりとめもなく書き綴ってみました。

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「オタク道精神」についての私論

昨今の「萌え絵」批判に関しては、私もオタクのひとりとして、オタク諸氏が自分の好きなものを批判されて憤る気持ちもよくわかります。例えば、函館市電の「鉄道むすめ」である松風かれんさんが好きな私としては、「駅乃みちか騒動」で「鉄道むすめ」というプロジェクト自体が悪く言われるのには、正直あまり良い気分ではありません。

しかしながら、「萌え絵」批判に対するオタク諸氏の態度にも、私は疑問を抱かざるをえません。はたして、オタク諸氏が本当に守りたいものは、いったい何なのでしょうか。

私が漫画やアニメなどの「創作表現の自由」を守りたいのは、なによりも(受け手あるいは送り手として)「創作物」を自由に楽しみたいからです。「創作物」を自由に楽しむことさえできれば、たとえ「オタク趣味」が世間一般に受容されなくても一向に構いません。ですが、どうも私には、昨今のオタク諸氏は「オタク趣味」が世間一般に受容されることで自分自身も世間一般に認められたい(ある種の「ステータス」を得たい)がために、「創作表現の自由」を主張していると思えてならないのです。

思うに、ここはひとつ、「世間一般の価値観に惑わされることなく、自分の好きなコト・モノを自由に楽しむ」という「オタク道精神」の原点に立ち返ってみてはどうでしょうか。「世間一般の価値観に惑わされることなく」といっても、決して私は「他人の尊厳を踏みにじってもよい」などと言いたいわけではありません。私が言いたいのは、「オタク趣味」を世間一般に受容させることに腐心して、本当に大切なものを失うようなことがあってはならない、ということです。

「創作表現の自由」を全うするためには、時として「社会道徳」に背くことも必要です。そうであれば、「社会道徳」が支配する公衆スペースにおいて「創作表現の自由」を貫くことができないのは、理の当然だといえます(誤解なきように言っておきますが、だからといって「萌え絵」が公衆スペースから全面的に排除されてもよい、などと言うつもりは毛頭ありません。)。また、「表現」が「創作表現」ではなく「広告表現」であれば、それはなおのことでしょう(表現の自由憲法上保障される趣旨に鑑みると、「創作表現の自由」についての議論が「広告表現の自由」にそのまま妥当するわけではありません。)。そして、「表現」が「エロティックな表現」であれば、「社会道徳」が支配する公衆スペースにおいてその自由を貫くことなどとうていできないの、言うまでもないでしょう。なぜなら、エロティシズムは、「社会道徳の光」の下で生き永らえることなどとうていできないからです。

「エロティックな表現」も当然のごとく「表現の自由」が保障されるものであると、私は考えています。なぜなら、「エロティックな表現」は「人間の生」を描く上で時には必要であり、そうだとすると、それは(表現の自由を支える価値である)「自己実現」に資するものであるといえるからです。

もっとも、先にも述べたように、エロティシズムは、「社会道徳の光」の下で生き永らえることなどとうていできないものです。しかるに、昨今のオタク諸氏は、「エロティシズムの道徳化」を志向しているように見受けられるのですが、しかしながら「エロティシズムの道徳化」は、エロティシズムをやがて死に至らしめます。

そうであれば、「エロティックな表現」をも愛好する我々は、そろそろアンダーグラウンドへ還るべきなのかもしれません。他でもない、我々オタク自身の幸せのために。

 

 

 

 

 

 

もはや「民族差別は悪いことではない」という日本社会の風潮について

阪急バス、韓国人客の乗車券に差別表現を印字 会社は謝罪したが経緯解明できず http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/06/hankyu-bus_n_12370072.html

 

もはや「民族差別(蔑視)は悪いことではない」ということが社会の「常識」となってしまっているような「この国」では、「民族差別(蔑視)」は「国家的道徳」なのかもしれません。

そうして、少なくとも近代以降、「民族差別(蔑視)」さらに言えば「朝鮮(韓国)蔑視」は、「この国」の存立条件のひとつだということなのでしょう。

ですが、いつまでもそれを許容してしまっていて本当に良いのでしょうか。

私は、この社会で「尊厳あるひとりの人間」として生きることを希望します。それゆえ、普遍的価値としての「人間の尊厳」を確証するためにも、私は「この国」の根底にある「差別意識排除の論理」に異議を申し立てます。

もうそろそろ、「差別意識排除の論理」によって作られた「この国」を内側から解体して、再構築しませんか?そのためにも、まずはこの社会に蔓延る「民族差別(蔑視)は悪いことではない」という風潮に異議を申し立て、「空気」を壊していきましょう。

(残念ながら)当然、「民族差別(蔑視)は悪いことではない」という「空気」を壊すことに抵抗感を示す人もいることでしょう。もしかすると彼は、「この国」の存立を支える「論理」が否定されることで、「ダイニッポンの<おれ>」が崩壊してしまうことを恐れているのかもしれません。ですが、思うに彼のそれは迷妄です。なぜなら、彼が「自由な」人間であれば、たとえ「ダイニッポン」が解体されることで「ダイニッポンの<おれ>」が崩壊しようとも、彼は「自由に」彼自身を再び作ることができるのですから。もっとも、それは彼が「尊厳あるひとりの人間」として「自由に」生きることを希望すればの話ですが。

 

「地方蔑視」と「民族差別」についての試論

いわゆる「地方蔑視」に批判的ではない人が、民族差別に反対する人の中にもしばしば見受けられます。どうやら彼らは、「ヘイトスピーチ」の定義に該当しないから許される、と考えているふしがあるように思われます。また、彼らは、「地方蔑視」に批判的ではない彼らの態度に対する批判に対して、「『田舎の停滞性や閉鎖性』を批判できなくなってしまうではないか」と反論するかもしれません。

たしかに、彼らが言うように「ヘイトスピーチ」の定義に照らせば、「地方蔑視」はヘイトスピーチそのものではないでしょう。しかし、私は、「地方蔑視」にはヘイトスピーチ、さらにいえば民族差別の根底にある思想に通じるものがあると考えています。

すなわち、それは日本帝国主義によるアジア侵略や植民地支配を支えた思想の一つである、「(アジア)停滞史観」に通じるものがある、ということです。こんなことを言うと「いい加減なこじつけだ」と批判されるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。たとえば、日本政府の沖縄政策は、沖縄を(文明化の)「遅れた土地」であると見る史観に支えられているのではないでしょうか。また、大日本帝国にとって「朝鮮」や「台湾」は、(「帝都」の対極という意味で)「究極の地方」だったのではないでしょうか。

このように、現在の沖縄問題や過去の(もっとも、未だ清算されてはいませんが)植民地問題の根底に横たわっているのは、「帝都>周縁」という「帝国主義的」な権力(暴力)構造です。そうして「地方蔑視」は、まさしくそのような権力構造によって生み出されたものであるといえるでしょう。つまり、「地方蔑視」の延長線上に、植民地に対する蔑視とそれによる植民地支配の正当化がある、ということです。

ところで、前述のように「地方蔑視」に批判的ではない人は、「地方蔑視」に批判的ではない彼らの態度に対する批判に対して、「『田舎の停滞性や閉鎖性』を批判できなくなってしまうではないか」と反論するかもしれません。しかし、そもそも「停滞性や閉鎖性」というのは、本当に「地方」固有の問題なのでしょうか。

たしかに、彼らが何を批判したいかは、私にもわかります。しかし、だからといってそれを「地方」固有の問題と捉えてしまうと、問題の本質を見誤ることになります。

思うに、ここで問われるべきは「地方」ではなく、(差別の根源である)「『イエ』的日本」です。しかるに、「『イエ』的日本」の問題を「地方」の問題に矮小化し、「地方」をスケープゴートにすることは、「『イエ的』日本」を解体するどころか、むしろ問題の本質を隠蔽し「『イエ』的日本」を温存する結果を招くのではないでしょうか。

民族差別の問題においては、「帝都>周縁(へ向かう権力という名の暴力)」という「帝国の論理」が問われなければならない――民族差別に反対する諸姉諸兄には、どうかこのことを認識していただきたいと思います。